ヘルマン・ヘッセの数ある作品のなかでも日本ではとくに有名なのが『車輪の下』です。

故郷の人々の期待を一身に背負ったハンス少年は猛勉強の末に神学校入学試験に合格します。
しかし彼は級友ハイルナーと結びつきが強くなればなるほど、勉強に身が入らなくなってゆきます。

そしてハイルナーが神学校を去ってからは完全に落ちこぼれとなり、心身ともに消耗し、「休学」という形で故郷へ帰ってくることになります。当然ながらもう一度マウルブロン神学校の門をくぐることはありませんでした。

結末は知ってのとおりでハンスは川でおぼれ、命を落とします。

父ギーベンラートに対して、フライク親方は「あなたもわたしも、この子にはもっとしてやることがあったのではないですかな。そうは思いませんか?」と投げかけます。周囲の期待や神学校の教育カリキュラムという重圧が前途ある若者を台無しにしてしまったということでしょう。

でも本当にそうでしょうか?


ハンスは教育に押しつぶされたのか?

『車輪の下』はヘッセの自伝的要素をかなり含んでいる作品です。14歳のとき、ハンスと同じマウルブロン修道院の神学校に入学したものの、わずか半年ほどで脱走し、のちに退学。そしてその後神経症の治療中に自殺を図ろうとしています。つまりハンスというキャラクターはヘッセの体験が投影されたものと見ることができるでしょう。

ヘッセはその後16歳のとき(1893年)にカンシュタット高校に入学するも1年たらずで退学。書店に就職するも3日で退職。17歳のとき(1894年)には時計工場に就職。翌年にはまた書店員になります。
その後27歳のとき(1904年)、『郷愁』を発表して作家として認められています。実は彼は13歳のときに「詩人になるか、さもなければ何にもなりたくない」と決意しており、退学を繰り返し、職を転々としたのも心に秘めた願望がそれだけ強かったからなのでしょう。

ヘッセ自身はその後ノーベル文学賞を受賞し、文学史に名を残すことができていますが、ハンスの命は帰ってきません。

しかしハンス≒ヘッセだとすると、こういう生徒を指導することになった教師はたまったものではないでしょう。だって、言うことを聞かないのは目に見えていますから。どんな優れたカリキュラムがあったとしても、いつかは問題行動を起こしていなくなっていたでしょう。

そもそも同級生は数十人いて、途中で退学したのはハイルナーひとりだけ。心身の不調で休学となったのはハンスだけです(他、不慮の事故で1名死亡)。
もし少年を押しつぶしてしまうほど神学校のカリキュラムが過酷なものであれば、もっとドロップアウトする学生はたくさんいたはずです。しかし実際には1学年に2名しかそういう人はいません。
世の中にはマウルブロン神学校よりももっと厳しい学校はたくさんあるでしょう。たとえば防衛大学校の指導は大変厳格なものだと聞いたことがあります。国民の命がかかっているのですから当然ですが、大部分の学生たちは無事卒業し、自衛官として立派にその職務を担っています。これが現実です。

思い返してみれば、私の通っていた高校にもよくわからない理由で学校に来なくなった・・・と思えばじつは退学していた、という人が1,2名くらいはいました。つまり『車輪の下』においても、教育制度に欠陥があったのではなく、現行の教育制度にうまく適合できない学生をどうケアしていくかという、「配慮すべき学生への配慮が行き届かなかった」ということではないでしょうか。

ハンスの場合は、ハイルナーと仲良くなってからだんだんと勉強に集中できなくなり、体調面でもメンタル面でも悪循環に陥るというもの。勉強一筋だったのに、異質な価値観を知ってしまったためにこれまでの自分と干渉を起こしてしまったのでしょう。もしかすると適応障害だったのかもしれません。あるいは、牧師以外の職業(たとえば、詩人など)への適性があるというシグナルだったのかもしれません。

しかし神学校の指導は、「勉強しなさい」一辺倒。なんだかワンパターンですね。これじゃ逆効果でしょう。つまりはハンスが押しつぶされたのは「教育」というよりも、配慮学生へ配慮が行き届かなかったという、現代では考えられないようなリソース不足であり、そういう視点から学生を指導しようという考え方がなかった「時代」のせいだったと言ってもよいのではないでしょうか。