ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』は彼の作品のなかでも最も有名なもの。ハンス・ギーベンラート少年は村の期待を一身に担い、神学校入学試験に合格します。

進学先であるマウルブロンで、ハンスはオットー・ハルトナーやカール・ハーメルといった級友と人間関係を深めてゆきます。そしてもうひとり、ヘルマン・ハイルナーという友人が登場します。作者ヘッセと同じ名前が与えられていることから、ヘッセ自身のパーソナリティをかなり反映したものと見ることは間違いではないでしょう。

彼には、「詩才があり、文学好きだ」ということで知られており、州試験の作文を六脚韻文で書いたという噂もありました。詩を作っているというのは事実であり、このハイルナーに影響されたハンスはやがて神学校の生徒のなかでも次第に成績が振るわなくなり、ハイルナーが失踪してしまってからは落ちこぼれ学生の烙印を押されることとなってしまいます。

手短に『車輪の下』を言うならば、「教育」という社会的圧力に多感な少年が挫折を味わい、押しつぶされてしまったということになるでしょう。

しかし私自身は話の本筋と無関係に別の挫折に味わいを感じてしまうのでした。まさかヘッセもこんなところに面白みを感じる読者がいるなんて想像もしなかったでしょうね。


『車輪の下』のひっそりとした挫折

ハンスたちが暮らす神学校の部屋には「ヘラス」「アテネ」「スパルタ」などギリシアにちなんだ名前が与えられていました。ハンスの部屋は「ヘラス」。ここに一緒に住んでいた仲間のひとりにエミール・ルチウスという大人びた雰囲気の少年がいました。いつもこざっぱりとした身なりをしており、淡い金髪をいつも丁寧にとかしていました。

が、彼はドケチであり、そのケチぶりに級友は辟易することになるものの、まあ勤勉な生徒だったので別に人から恨まれるというほどではありませんでした。
その彼は神学校の授業はすべて無料であることに目をつけ、これを利用して(よしておけばいいのに)ヴァイオリンのレッスンを受けようと企てます。

知っている人は知っていると思うのですが、ヴァイオリンという楽器はものすごく難しいもの。
小さな子供の頃に集中的に練習を積むことができればある程度上達できますが、これは親ガチャなので本人の意志や適性とは無関係です。
大人になってから始めるとものすごく上達が遅く、綺麗な音色に憧れてヤマハ音楽教室に通い始めるものの、1年くらいで挫折する人が後を絶ちません。私自身も大学入学のときからヴァイオリンを始めましたが、いくら練習しても上手くなりません。

ある日、先生に「この調子だと協奏曲とソナタを何曲かちゃんと弾けたら、それで人生終わりますね」と冗談めかして伝えたところ、「そうです。ヴァイオリンってそういうものです。誰がやってもそれくらい時間がかかります」真顔で言われてしまいました。

ルチウスはそんなことを知る由もなく、ただただレッスンは無料であり、音楽をやっていると好感度がアップするからという理由でこの楽器を始めたのでした。

しかし、最初の練習時間が終わったとたん、同室のものから、これが最初で最後にしてくれ、あのやりきれない呻き声はまっぴらご免だ、と宣告されてしまった。

(中略)

さっぱり進歩しないので、業をにやした先生はいらいらして、つっけんどんになった。ルチウスはますますやけになって練習をくり返し、これまでいい気になっていた小商人面にも、つらそうな心配の色が浮かんできた。ついに、先生から最後の宣告をくだされて、きみにはまったく才能がないから、これ以上レッスンをつづけるわけにはいかないと言われたとき、欲に目のくらんだ少年はピアノをえらんだが、それはまったく悲劇であった。このピアノでも、何カ月も成果のあがらない苦しみを味わい、ついにくたくたになって、おとなしくあきらめてしまったのである。
のちにルチウスは、自分はヴァイオリンとピアノを習ったことがあるけれど、いろんな事情があって音楽とはご縁がなかったとそれとなく語ったそうです。

この挫折はハンスに比べればまだ笑い話で済む話で、少なくとも神学校はどうやら卒業でき、牧師か何かとして社会の一員としてまあ悪くはない身分におさまることができたのでしょう。

このしょうもない挫折もまた青春のひとこまであり、無事成長することができた大人にもそういう経験が何かしらあるものだと暗に言っているように思えてなりません。なぜって、私自身もヴァイオリンを練習しまくってもほんとに難しくて全然上達を実感できないまま一生が終わってしまうという予感がひしひしとするからです・・・。ヴァイオリンは無理ゲーです。


注:本記事の『車輪の下』からの引用は集英社文庫版・井上正蔵訳によるものです。