ドイツロマン派を代表する作曲家であるブラームスの交響曲はとくに名高く、それに続くのが『ヴァイオリン協奏曲』や『ドイツ・レクイエム』でしょう。このほか『ピアノ協奏曲第2番』も重厚にして勇壮、ブラームスの美質がはっきりと現れた名作です。
その影に隠れるかのように、演奏頻度が少ないのが『ピアノ協奏曲第1番』です。手短に言うと主題も楽想も『第2番』の劣位互換でしかないので当然といえば当然でしょう。CDで聴いても途中で嫌気がさし、コンサートで聴いても「早く終わってくれ!」と思う(ならばなぜチケットを買った!?)のがこの作品。
・・・と、ここまででブラームスの『ピアノ協奏曲第1番』はなぜ退屈なのか? への答えがすでに出てしまいました。一応、以下にこの作品が退屈な理由を掘り下げておきたいと思います。
ブラームスの『ピアノ協奏曲第1番』が退屈な理由
この作品があったからこそ『第2番』があるわけで、ブラームス自身にしてみれば有意義なチャレンジだったといえるでしょう。しかしだからといって、客席で聴いているお客さんが幸せになっているかどうかは、別の話です。
そもそもブラームスはオペラのような華美なものを嫌い、協奏曲というジャンルでもソリストばかりが華麗な技巧をひけらかすといった類のものに反発を感じていたようです。だから『ピアノ協奏曲第1番』のように独奏楽器=ピアノがオーケストラの上に屹立するような図式ではなく、ピアノもオーケストラも共同して一つの音楽を作り上げるような内容になっています。
ところがそれが災いして「ただ分厚いだけ」ともいえる仕上がりになってしまったようです。
まず第1楽章。出だしからしてなんだか偉そうな雰囲気です。でも偉い人の話ってなんであんなに尊大で退屈なんでしょう? 「我社は創立以来風雪90年、半導体の分野では他社に先駆けて〇〇を開発し北米市場でのシェアを不動のものとし云々」。こんな感じで曲が始まります。社長の話は面白くないですね。まあいいでしょう、出だしですから多少のハッタリは認めましょう。
で、第2主題。どんなメロディだろう・・・、と思ったら出だしの雰囲気をそのまま引きずっていて、なんだか社長に忖度して似たようなことを言う副社長が出てきました!
もうこうなってくると第1楽章は偉そうでうざいおっさんの話に延々と付き合わされてしまいます。こんな奴と新幹線とか居酒屋で一緒になったら・・・どうだ嫌でしょう。
続く第2楽章も一応ニ長調ということになっているものの、やはり暗さや渋さ、硬さという点では社長の影響を受けすぎています。これをマトリョーシカ人事と言います。中から出す、似ていて安心だが、小さくなるだけ。師シューマンの慰霊の念をこめて書かれたとされていますが(だから『ドイツ・レクイエム』みたいな雰囲気なのか?)、第1楽章のあとでこれを聴くのは辛い。
第3楽章はブラームスらしい暗い情熱に溢れたもの。出だしの音の連なりからして彼の音楽そのもの。うーん、でもやっぱり社長の呪縛から逃れられませんね。
こうやって似たような雰囲気の音楽を40分以上聴いていると、つい思い出すのがワインを飲んだり、お寿司を食べたりする順序です。
ワインは普通、白から赤へ。後戻りはしません。赤から白だと舌に赤ワインのタンニンが付着して白ワインの味が分からなくなるからです。白ワイン2種、赤ワイン2種などと飲み比べしたい場合も、それぞれ軽めから重めの順番で飲むのが普通です。
お寿司は味が淡泊→濃厚→脂の乗ったネタ→巻き物といった順序で食べるのが定石です。
アジ、マダイ、イカやタコ、マグロやサーモン、そして穴子、タマゴ、鉄火巻などです。
これは、最初に脂ののったネタを食べてしまうと口の中に脂が残り、舌の感覚がどうしても鈍ってしまうからです。白ワイン→赤ワインの順序である理由と似ていますね。
ブラームスの『ピアノ協奏曲第1番』をお寿司に例えると、ずっとサーモンとかマグロとかを食べているようなものでしょうか。〆鯖とかヒラメとか、他にも魚はたくさんあるはずなのに、なぜそればかり? もっと色んなものを食べたほうが満足できるのに一体どうして・・・。
とまあ、私なりにブラームスの『ピアノ協奏曲第1番』を退屈に感じてしまう理由を整理していました。ああ、自分なりに文章化できてスッキリした!!
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