モーツァルトを演奏するというのは大変な困難が伴うものです。聴いているほうは寝ていてもOKなのに、なんだか理不尽な話です。

真面目に演奏すればするほど、モーツァルトらしい無邪気さや愉悦感が遠のいて、なんだか無理している雰囲気が出てきたり、堅苦しくなったり、田舎臭くなったりと、良かれと思ってやったことがかえって逆効果になります。

「おれ、劣等人種なんじゃ・・・」

そんな気持ちにすら陥りがちです。そもそもヴァイオリンとピアノは子供のころの英才教育が重要。その教育機会を与えられなかった人はもうその時点で詰んでいます。というか、「ヴァイオリンをやりたい!」なんていう意志のある子供なんていませんから、親ガチャとしか言いようがありません。

まあ、英才教育を受けて一流音楽大学を卒業したが、じつは表現者の器ではなかったと大人になってから後で分かるという悲劇だけは体験しなくて済みますが。でも音楽大学を卒業できるくらいの時間と労力を投入するくらいなら、国立大学医学部だって十分合格が望めます。正直、そっちのほうが良かったんじゃ・・・。

ともかくプロを目指す人もそうでない人も、モーツァルトというのはもはや謎レベルの存在感を放ちます。楽譜は一見簡単なのに、やってみると「らしさ」が全然出て来ない。なんていう厄介な話でしょう。

私なりに、モーツァルト演奏がダサくなる理由を一つ発見しましたので、今日の記事はこのことを取り上げてみます。

モーツァルト演奏がダサくなる理由

私は今、モーツァルトの「ロンド KV269」に取り組んでいます。可愛らしい曲ですね。




が、自分が弾いてみるととにかくかっこ悪い。先生からレッスンを受けながら、「なんでワイはこんなにダサいんや」と首をかしげることしきり。

で、実際に先生の前で演奏してみると、「これはヤメロ」と指摘事項1件。
問題箇所は赤い矢印のところです。

No.2
これは74~75小節目ですが、「ファ ファソ♭ミレ、レ」とメロディが続いています。
私は75小節目の二つめの音符である「ソ」を必要以上に長く伸ばしていました。
日本語のイントネーションには「よろしくお願いします」が「よろしくお願いしま~す」と語尾が無駄に長くなる傾向がありますが、そういう感じになっていました。

しかしモーツァルトに限らず、クラシックではスラーで繋がれた2つの音符があると、1つ目を長く、2つ目は短くするという暗黙のルールがあります(と先生が言っていた)。

「なんだか自分の演奏は茹ですぎたうどんのような間延びしたところがあるなあ」と薄々気づいていたのですが、それがなぜか分からないまま時間が過ぎていましたが、今日のレッスンで「無駄に長くしているところがある」とはっきりと指摘されました。

どうして自分のモーツァルト演奏がダサいのか、ダメな理由が(まだきっと無数にあるに違いないが)1つ分かりました。これは先生の前で実際に弾いてみるということを通じて獲得できた経験です。
やはりレッスンというのはありがたいものですね。

モーツァルトのヴァイオリン曲といえばグリュミオー。
没後何十年も経過していますが、ここまで色々な意味でバランスが取れていて美しい演奏というのは滅多に巡り会えません。個人的にはグリュミオーならブラームスのヴァイオリン・ソナタも好きです。