Cuvie先生の描くバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』の最新巻、第20巻がこのほど発売になりました。
巻頭の作者コメントには「今回、ソ連の強権ぶりに作中でふれているのですが、描いている最中に、まさか戦争が始まるとは」。
キッシンジャーは「ロシアは見た目は西洋人でも、頭の中はモンゴル帝国だ」のような言葉を残しています。日露戦争のときもそんな感じでした。国の体質というのは100年くらいで変わることはないんですね。

『絢爛たるグランドセーヌ』第20巻では、『ラ・バヤデール』の演出がソ連政府の介入を受けてエンディングが変更されてしまったということが紹介されていました。ソ連では上演作品の検閲が行われていたのだそうです。

『ラ・バヤデール』の主人公ソロルだけは苦手という人も多いでしょう。愛する恋人がいたのに出世のために上司の娘と結ばれてしまいます。罪の意識に苛まれた彼はクスリの力で現実逃避。「なんでこんなダメ男なの?」と憤る女性の多いこと。だからソ連がエンディングを改変したのかどうかは不明ですが、そんなことをするのはいかにもソ連らしいですね。

『白鳥の湖』でも、政府への忖度なのか何なのか、頻繁に上演されたバージョンがありました。王子がロットバルトに戦いを挑むと悪魔は断末魔の苦しみに悶えながら死に、魔法が解けたオデットが王子と結ばれるというハッピーエンド。要するに正義の社会主義が悪の資本主義を打倒したぞ! ということが言いたいわけです。でも安っぽいですね・・・。

そもそもソ連や東ドイツのような東側の国は「社会主義は資本主義に勝る」という作り話を宣伝するために、スポーツであれ音楽であれ盛大に利用していたのは広く知られた話です。

例えばNHKの科学ドキュメンタリー番組『フランケンシュタインの誘惑 #16「汚れた金メダル 国家ドーピング計画」』では、
東西冷戦のさなか、オリンピックで金メダルを量産し続けた旧東ドイツ。旧東ドイツが国家ぐるみで行なった史上最大規模のドーピング事件に迫る! 人体への深刻な影響を知りながら計画を実行した科学者が編み出した、驚くべきテクニックの数々! 薬物を投与されていることさえ知らなかった元選手たちは、肉体的にも精神的もむしばまれていった! 残された極秘文書から、国家ドーピング計画の恐るべき実態が明らかになる!

(https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2019097358SA000/より)
といった内容が放映されています。「社会主義は強いんだ!」というフィクションを塗り固めるために国家が薬物の力を使ったわけですね。
このドーピング体質はソ連がロシアになっても変わりません。

【リオデジャネイロ=佐々木正明】ロシアの国ぐるみのドーピング問題に波紋が広がる中、同国スポーツ界を熟知する旧ソ連出身の記者や関係者は、産経新聞の取材に対し、「ソ連時代から続く悪習が原因だ」などと語った。一方、ロシア人記者は「締め出しは人権問題だ」と憤った。

 旧ソ連諸国モルドバの通信社記者、セルゲイ・ドネツ氏(58)は「ロシアではスポーツと政治は切り離せない。ソ連時代から続く文化だ」と語った。ロシア・スポーツ省の存在はこの指摘を裏付けるものだとし、「ドーピングが行われたのは明らかに上からの指示だ。スポーツ省を解体しなければ、問題は解決されない」と話した。

(https://www.sankei.com/article/20160818-ZQZFZYMTABNJXGKLRZ3WU3QKQM/より)

音楽においてもやはりソ連はその経済規模とは不釣り合いなほど組織的な保護を行っていました。
端的にそれを表すのは1958年に始まった「チャイコフスキー・コンクール」でしょう。1957年にはスプートニク1号の打ち上げに成功。科学だけではなく芸術でもソ連の優越性を証明するためのものであったことは明らか。

審査員もギレリス、カバレフスキー、ネイガウス、オボーリン、リヒテルなど当時のソ連を代表する人材だらけ。出場するソ連の候補者たちは実質「隔離」されて猛特訓に励むことになりました。

ところが皮肉なことに、第1回チャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で1位を獲得したのはアメリカのピアニスト、ヴァン・クライバーンでした。帰国した彼を出迎えたのはアイゼンハワー大統領。そしてNY五番街をパレードすることになりました。クライバーンは一躍ヒーローとなったのです。
ひとつの音楽コンクールがここまで話題を集めたのは、東西冷戦という政治的緊張があったことは間違いないでしょう。

ただこの結果に業を煮やしたのか、ソ連政府はその後有名国際コンクールには必ず優秀な若手を十分なトレーニングと(亡命されないために)厳重な監視体制のもと送り込むようになり、西側諸国の若者たちと激しい火花を散らすようになります。資本主義と社会主義の代理戦争といってもよいでしょう。

このようにソ連がスポーツや「表現」に介入すると、決まってややこしいことになっています。繰り返しますが、こういう国の体質というのはまったく変わらないものなので、22世紀になっても私と同じようなことを感じる人はゴマンといることでしょう。まったく残念なことです。