『ゲド戦記』の第2巻『こわれた腕環』ではゲドがアチュアンの墓所に潜入して腕環の半分を探し出そうとする様子が描かれています。

半分? はい、第1巻の後半のほうでカルガド帝国から追放された子供たちが数十年にわたってずっと大切に保管していたのが、残り半分の腕環でした。ゲドはこれをずっと大切に身に着けていたところ、セリダーの竜からこの腕輪の由来を教わります。これこそまさにエレス・アクベの腕環であり、バラバラになってしまった腕環が再びつなぎ合わされたときにこそ、平和の鍵となる失われた神聖文字がよみがえり、戦乱の時代は終わりを迎えてついに平和が多島海にもたらされるというのでした。

かくしてゲドはハブナーでカルガド帝国の言語を学び、アチュアンの墓所へ潜入するわけですがこの墓所を支配する力はゲドといえども魔力を十分に行使できなくなるほど強大なものでした。弱り果てた彼はとうとうアルハに見つかり・・・、そして彼女が真の自己に目覚めるのでした。

それにしても、二つの壊れた腕輪が一つになると平和がよみがえるというのは、なんだか第1巻『影との戦い』を思い出させるではありませんか。


エレス・アクベの腕環が一つになるのは、第1巻みたいだ

ものが壊れるとき、普通はバラバラになるものであって、きれいに真っ二つになるのってずいぶん都合がいい話・・・、しかも一番大事な神聖文字のところが切断面になるなんてずいぶん出来すぎてないか? いえ、これはフィクションなので作者がそうなったと言えば全部そうなるのです。

第1巻『影との戦い』ではゲドが自ら招き寄せてしまった影からずっと逃げ続け、あるときこれに向き合うことを決意すると様相は一変します。追われていたゲドが今度は追いかける立場になり、やがてゲドと影は相互に真の名前「ゲド」を呼び交わし、一つになります。分裂していた自己とくに暗い「影」を自らのものとして受け止めたときにこそ自分が真の自分となる・・・これが『影との戦い』のコアとなる部分です。

第2巻はアルハ(テナー)の目覚めが描かれていますね。大巫女の生まれ変わりとして「喰らわれし者」の意味であるアルハの名を与えられた彼女は幼くして両親と引き離され、アチュアンの墓所で宗教儀式に携わり、自己というものが確立されないままカルガド帝国の伝統(因習?)をつなぐためのいわば「道具」としての日々を過ごしています。

ところがゲドと知り合ったことで「何か」が変わり始めます。朝早く目覚めた彼女は晴れ渡る朝の空に舞う一羽の鳥を見つけます。
タカだろうか、それともワシだろうか、空高く一羽の鳥が輪をかいて舞っていた。いち早く日の光を浴びて、鳥は一片の黄金のようだった。
「わたしはテナーなんだ。」アルハは小声でつぶやいた。陽に洗われた大空のもとで、彼女は寒さと恐怖と、だが、たとえようもない歓喜に身を震わせた。「わたしは名まえをとりもどした。わたしはテナーなんだ!」
アルハが自己に目覚め、テナーという名前を取り戻すきっかけが腕環だったというのは興味深い点です。環というのはしばしば「完全性」の象徴として古代から様々なシンボルとして用いられていますから、こわれた腕環が修復され一つになるということは、アイデンティティが欠けていた「わたし」がそれを取り戻し、真の自分になることのあらわれでもあるといえるでしょう。ちょうど第1巻でゲドが影を吸収して一つになったように。

『ゲド戦記』は装丁が児童文学なので大人が読むにはためらわれるかもしれませんが、実際には子供のときに読むよりも遥かにいろいろなことを深読みできて面白いものです。私は25年ぶり? くらいに読み返しましたがさて生きているうちにあと何度この作品を読めるのでしょうか?