岡山県にあるノートルダム清心女子大学。この大学の学長・理事長を経験された渡辺和子さんの著作『置かれた場所で咲きなさい』は2012年のベストセラーとなりました。

Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)
この詩を手渡された渡辺和子さんは、

「咲くということは、仕方がないと諦めるのではなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と続いた詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
置かれたところで自分らしく生きていれば、必ず「見守ってくださる方がいる」という安心感が、波立つ心を鎮めてくれるのです。
このように『置かれた場所で咲きなさい』の冒頭で述べています。

これだけ読んでいると、「なんだ、ブラック企業に就職したらずっとそこにいろ」って言ってるじゃないか! というふうに受け止める方もいらっしゃるかもしれません。

これはおそらく著者ご自身の本来の意図とはやや異なるのではないかと思います。
なぜなら、Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)に響き合う言葉が20世紀の名著にも記されているからです。『置かれた場所で咲きなさい』という言葉、この書籍に盛り込まれた考え方は、以下のような著作の系譜に思想的には連なるものであり、「ブラック企業にずっといろ」というニュアンスとは異なるのではないでしょうか。

神谷美恵子『生きがいについて』

神谷美恵子(1914-1979)はマルクス・アウレリウスの『自省録』を翻訳したこと、津田塾大学の教授を務めたこと、また美智子さまのお話相手として様々な相談に乗ったことなどで知られていますが、『生きがいについて』という著作を世に問うたことが最大の業績でしょう。

彼女は43歳のとき、岡山県のハンセン病療養施設「長島愛生園」に精神科医として勤務します。
ハンセン病といえば言うまでもなく、かつて“不治の病”“業病”などと恐れられてきました。戦後、特効薬による治療が始まり、完治する時代になったものの、国は患者の強制隔離を続けました。これにより日本ではハンセン病患者に対する差別意識が根強く残りました。2001年には小泉内閣総理大臣(当時)が、「隔離政策は過ちだった。患者と元患者に対して謝罪する」との談話を発表していますが、そもそもこの問題が20世紀で片付かなかったことが問題の根深さを象徴しています。(もちろん談話ですべてが終わったわけではありません。)

神谷は、なぜ世の中には、絶望的な状況にあってなお希望を失わずに生きぬいている人たちがいるのかという疑問を抱くようになります。ハンセン病患者の一部には、「苦しみや悲しみの底にあってなお朽ちない希望や尊厳」を持つ人がいることを発見します。視力を完全に失いながらも窓外の風物に耳を澄ませ俳句を創り続けたり、失った指の代わりに唇や舌に点字を当てて、血をにじませながら読み続けたり・・・。

こうした患者と接するうちに、同じ条件のもとであっても生きがいが感じられずに悩む人もいれば、生きる喜びに満ちあふれている人もいる。これはなぜだろうと思いまとめた著作が『生きがいについて』でした。この本はNHKの「100分de名著」にも取り上げられたことがあります。
神谷美恵子がとりわけこだわったのは、「生きがい」が決して言語化できない何かであり、考える対象ではなく「感じられる何か」であるということ。神谷が生きがいをとらえようとするさまざまな言葉から浮かびあがるのは、生きがいが、他者のものとは安易に比較できない「固有のもの」であるということだった。第1回は、神谷美恵子が探求し続けた「生きがい」の多面的な意味を、さまざまなエピソードを通して明らかにしていく。

(https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018087480SA000/より)

神谷は患者たちの聞き取りを進めながら、少数の闘病者にははっきりと生きがいを感じ、精神的に深みを増してゆくことがあるとに気づきます。
彼らは自分の悩みに真剣に向かい合った結果として、初めて自己に対面することになったのでした。

人間が真にものを考えるようになるのも、自己にめざめるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行われる。

(中略)

「人間の意識をつくるものは苦悩である」というゲーテのことばは正しい。苦しむことによって初めてひとは人間らしくなるのである。
要するに苦しみが人格を向上させ、完成させることに作用するのです。
自分に課せられた苦悩をたえしのぶことによって、そのなかから何事か自己の生にとってプラスになるものをつかみ得たならば、それはまったく独自な体験で、いわば自己の創造といえる。それは自己の心の世界をつくりかえ、価値体系を変革し、生存様式をまったく変えさせることさえある。ひとは自己の精神の最も大きなよりどころとなるものを、自らの苦悩のなかから創り出しうるのである。知識や教養など、外から加えられたものとちがって、この内面からうまれたものこそいつまでもそのひとのものであって、何ものにも奪われることはない。
すなわち、療養所という制約が課せられた環境であっても、なお創作や学問に励もうとする姿勢をもつ人こそ、「置かれた場所」で花を咲かせたのです。


フランクル『夜と霧』

これも有名な書籍です。ユダヤ人であったフランクルは、ナチスが建設した強制収容所から奇跡的に生還します。ここでの苛烈な体験を述べたのが『夜と霧』でした。「言語を絶する感動」と評されたこの書籍は人間の偉大さと悲惨をあますところなく描いたとされ、世界中で読みつがれています。おそらく20世紀に書かれた書物のうち、これを越える内容のものはないでしょうし、またこのような著作が書かれてしまうという失敗は人類が繰り返してはならないものです。

しかしフランクルは『夜と霧』を書いた動機はナチスのホロコーストを批判するためのものではありませんでした。恐ろしい絶滅政策に加担してしまう集団があったとしても、その中にも善意の人はいます。他方で被害者とされるユダヤ人のなかにもナチスに協力し自分だけは助かろうとした者もいました。
たとえば収容所の監督者(つまりナチス)が、囚人のためにパンを渡したり、励ましの言葉をかけたりといった人間らしいしぐさを示したとき、フランクルは深い感動に打たれたそうです。

地獄ともいうべき環境のもとであってもこうしたことがあると知ったフランクルは冷徹なまなざしで「人間」を見つめ続けます。
そして彼がたどり着いた結論は、
わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
この言葉は『夜と霧』の最後のほうに記されています。ナチスの一員でありながらも、ひそかに業務命令に背くことをした者も、死を前にしてなお祈ろうとするユダヤ人も、『置かれた場所』で自らの花を咲かせた者たちと言えるでしょう。


私の書棚には以上のような本が並んでいます。『置かれた場所で咲きなさい』を読み返すとき、私にはこの本の題名は『生きがいについて』や『夜と霧』が書かれることになった20世紀という歴史のうねりを自分なりに経験した(渡辺和子さんは2・26事件に際し、父が目の前で殺害されています)一人として、この本を私たちに残してくださったように思えてなりません。