2022年5月29日(日)、池袋・東京芸術劇場にて行われた読売日本交響楽団の第247回日曜マチネーシリーズ。
指揮=上岡敏之
ヴァイオリン=レナ・ノイダウアーメンデルスゾーン:序曲「ルイ・ブラス」 作品95
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64
チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」
(読売日本交響楽団公式サイトより)
という顔ぶれ・曲目。メンデルスゾーンといいチャイコフスキーといい、有名曲が並んでいるだけにやはり注目度は高く、行かないという選択肢は私にはありませんでした。
・・・の割には聴きに行くことを決めたのは当日の朝。当日券があるだろうとたかをくくっていたものの私が会場に到着した時点でS席は完売。やむなくA席へ。
3階席から会場全体を見渡すと99%ほどの入り。やはり誰もが聴きたがっていたようですね。
序曲「ルイ・ブラス」は、上岡敏之さんの明快で見通しのよいサウンドでこれから始まるコンサートへの期待を高まらせるに十分な出来栄え。
メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』はノイダウアーさんの精緻なソロが光ります。私が普段家で聴いているCDはハイフェッツだったり、デュメイだったり、エルマンだったりと大家のものが多く、どの演奏家でもそれぞれの個性が光るもの。
本日のメンデルスゾーンは演奏家の個性というよりもむしろメンデルスゾーンが書いた音符の一つ一つをすくい取って音の連なりを丁寧に再現してみたという趣のもの。結果として、キラキラと輝く首飾りを見ているかのような錯覚に陥ります。有名な冒頭のメロディから楚々と迫りくる情感、第2主題の切なさ、それから展開部、再現部と感情的にならずに淡々と進みます。
こういう曲であれば感傷的になりがちですが、そうなると逆に素人っぽくなってしまうのもまた事実。ノイダウアーさんはさすがにそのあたりを当然のごとく熟知しているようで第2楽章、第3楽章まで冷静にメンデルスゾーンを語りつくします。
思えばメンデルスゾーンは『スコットランド』や『イタリア』など、光や風、波しぶきなどを音で表現することに長けていました。が、自然を表現しようとして大げさにやればやるほど逆効果なのは名盤とされる録音を聴けばなんとなく想像がつきます。
このヴァイオリン協奏曲でもやはり「余計なことは一切しない」ほうが清楚に仕上がり、感銘を呼ぶであろうということが本日の演奏から伝わってきました。
休憩を挟んで圧巻の『交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」』。
かなり昔のことになりますが上岡敏之さんの指揮するブルックナー『交響曲第7番ホ長調』を聴いたことがあり、第1楽章が極端に引き伸ばしたような遅いテンポに驚いたことがあります。
まさか今回も終楽章が20分くらいかかるのでは(バーンスタインの晩年の録音のように)、と思いましたがそれは余計な心配でした。
第1楽章は、CDで聴いていると埋もれてしまいがちな内声部や木管楽器をきちんと浮き立たせ、じつは曲の構成上重要な役割を担っていることを初めて知りました。この曲は20年以上前から知っていますが、いやはや有名な作品というのは有名になるだけの理由があるんですね。そして初めて聴く人は必ずビクッとなる部分からの絶望の表現など、迫力に満ちていて生で聴く意味を十分に実感させてくれます。
第2楽章、第3楽章は感傷的にならず、また力まかせの迫力に頼るでもなく、オーケストラは数十人がかりの芸術であることを納得させるクオリティ。つまり複数の楽器が同時に呼び交わすことで音楽を成立させていることが嫌でもわかるはず。この解像度の高さ・・・、4Kテレビでしょうか?
第4楽章もまた計算されつくした各パートの音の動きに感銘を受けます。曲が曲だけに前半のメンデルスゾーン同様感情に流されがちですが、ここまで「音符が上下に動きながら右方向をめざす」ただそれだけのことが美しく表現されてしまうともう何も言えなくなります。まさかチャイコフスキーを聴いてバッハのフーガを聴いた時と同じ種類の感銘を受ける日が来ようとは。
演奏が終わると客席は長い沈黙に包まれ、かなり時間が経過してから恐る恐るパチパチという音、それが一瞬静まったもものその後に長々と拍手が続きました。
S席が確保できなかったのは残念ですが、やはり聴かないという選択肢はなかった、来て正解だったという深い満足感とともに私は東京芸術劇場を後にしました。
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