夏目漱石の連作小品集『夢十夜』より「第六夜」は、

運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。

という書き出しで始まっています。

運慶は巧みな技術で仁王を彫り進めていきます。一見無造作に見えながらも、木材がどんどん仁王像の形になってゆくさまを見て、人々は驚嘆の声をあげます。

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。

果たせるかな、「自分」も運慶のように仁王像を掘り出すことができるだろうと思って帰宅してすぐにチャレンジします。薪を彫っても彫ってもだめ。次の薪もだめ。さらにもう一度やってみても何も見つかりません。だめだこりゃ、でこのお話は終わります。

あれ、でも似たような話をどこかで聞いたことがある気がします。


運慶の台詞の元ネタはミケランジェロ?

ミケランジェロは次のような言葉を残しています。
「全て大理石の塊の中には予め像が内包されているのだ。彫刻家の仕事はそれを発見する事だ」

「大理石の中には天使が見える、そして彼を自由にさせてあげるまで彫るのだ」

モーツァルトが残した作品群のほとんども、楽譜に書きとめる以前に彼の頭の中にイメージが実在して、あとはペンを走らせるだけだったと伝えられています。ミケランジェロも「この大理石を素材にして、こういう像を作ろう」という確固とした目標があって、あとはひたすらゴールへ向けて手を動かすだけだったのでしょう。

・・・と、書いているうちに思い出したお話がもう一つ。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席フルート奏者だったウェルナー・トリップ氏が、あるとき日本の音楽大学の公開講座で演奏を披露したところ、「どうしてそんなに美しい音が出せるのですか」という質問が学生からも教員からも投げかけられたそうです。

彼は、「美しい音が頭の中にある。それを出そうと思って努力をしていれば必ず出せるようになります」と答えたとか。
この公開講座に立ち会っていた音楽プロデューサー・中野雄氏はトリップ氏を回想しながら次のように述べています。
ところが私の生徒たちは、「トリップ先生は、今日は何も教えてくれなかった」というんです。逆です。それがすべてなんです。おそらく私の生徒たちも、そして先生方の多くも、美しい音という観念が頭の中にない、目標にするものがない。ただ漫然とフルートを吹いているから、いい音にならないわけです。

(中野雄『音楽に生きる』より)
このように、ミケランジェロしかりモーツァルトしかりトリップ氏しかり、そもそも「自分は何をやりたいか」という表現の根幹をなす部分が微に入り細を穿つほど具体的に頭の中で煮詰まっていて初めて体を動かすフェーズに入っていることが伺われます。

ただ「絵を描こう」「小説を書いてみよう」「彫刻にチャレンジだ」というのとは全然比べ物になりません。そして、頭の中で思い描いたイメージは他の誰かの作品とは一線を画すものでなければいずれ歴史の波間に没してゆき、やがては失われてゆくことは明らかでしょう。そんな不可能を可能にしたのがまさに「才能」であり、その才能が眠ったままにならず、環境に恵まれたおかげで見事に開花したという事実は奇跡というほかないでしょう。

だからこそ運慶は日本美術史に燦然と輝く名を残せたのであり、「第六夜」の「自分」が運慶のようにうまく木を彫れなかったのは、もう当たり前すぎる当たり前の話でしょうね。