コンクールに出場すると、「自分はどうせこの辺で落ちるんだろう」「今年はあいつが1位になるに決まってる」などといった雑念が頭の中に湧いてきがちです。コンクールは若手演奏家がデビューするチャンスを掴み取るためのものなので、そういう年齢をとっくに過ぎてしまった私はもはやこういう感情とは無縁になってしまいました。ヴァイオリンのコンクールはハイレベルすぎて、そもそも出場できている時点でそうとうのものなんですけどね。

そうは言っても本当にプロを目指そうとすると「2位じゃダメなんですか?」などと言っている余裕もなく、1位を何が何でも獲得しようというガッツがなければ本選で衆人環視のもとオーケストラをバックにチャイコフスキーやメンデルスゾーンなんて演奏できませんよね。

「でもどうせ、俺予選で落ちるし」
そういう気持ちは分かりますよ、だって周りの人のほうがうまい奴らばかりで、自分は負け確なんて結果を見るまでもなく明らかなときってありますからね。

今回のブログ記事は、1回目でいきなり熾烈な争いになってしまったヴァイオリンコンクールのお話です。昔こんなことがあった、ということを知っておくと、「まあ俺がエントリーしているコンクールはこれよりまだマシかもな」という気持ちになれる・・・かも・・・?


第1回ヴィエニャフスキ・ヴァイオリンコンクール。初回が一番厳しかった?

1935年ワルシャワで開催された第1回ヴィエニャフスキ・ヴァイオリンコンクール。ショパンと並んで有名なポーランドの作曲家といえばヴィエニャフスキ。この協奏曲はコンクール頻出曲なだけに一度は弾いたことがある人も多いでしょう。1835年に生まれた彼を記念して開催されたのがこのコンクールでした。1935年といえばとっくにナチス政権が誕生しています。第二次世界大戦が始まる数年前という緊迫した状況のもと、このコンクールは始まりました。

審査員にはヴィエニャフスキの甥アダム、ヴァイオリニスト・クーレンカンプ、作曲家・ドホナーニ、フーベルマンやゴールドベルグの師匠ミハイロビッチなど。ずいぶん豪華な顔ぶれです。

しかし参加者もまたとんでもない奴らがそろっていました。
第7位入賞はイダ・ヘンデル。なんだ7位か? いえ、彼女はこのとき7歳・・・。
課題曲はバッハの無伴奏から数楽章、ヴィエニャフスキの小品をいくつか。自分で選んだロマン派か現代曲も演奏しなければなりません。本選ではヴィエニャフスキの協奏曲から2つの楽章を演奏することになっていました。これを7歳でやってのけたのです。

2位に輝いたのはオイストラフ。のちにハイフェッツと名声を二分することになるあのダヴィッド・オイストラフです。彼はこのとき27歳。なんだかこう書くとオイストラフはあまりうまくないんじゃないか、20年後にはイダ・ヘンデルに追い抜かされてるんじゃないかとか余計なことを想像してしまいます。でも彼が2位ってことは、1位は誰? まさか1位なしの2位? いえそんなことはありません。

1位を手にしたのはジネット・ヌヴー。あの天馬空を征くような演奏で知られるヌヴーです。

ヌヴーはこのとき若干16歳。自分と同じタイミングで同じコンクールにエントリーされたら「終わった・・・」と観念するでしょう。私自身はかろうじてモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第3番」をヨタヨタと弾ける程度なのでコンクールもへったくれもないので失うものは何一つありません。

ヌヴーは子供の頃から音楽を一度聴いただけで覚えることができたそうです。要するに素質があったんですね。5歳からヴァイオリン教師でもあった母親の指導を受けるようになります。そして7歳でブルッフの協奏曲をコロンヌ管弦楽とともに演奏してデビュー。1930年にはパリ音楽院に入学。翌年には学内コンクールで1位を獲得しました。まだ12歳だというのに一体・・・。

その後彼女はカール・フレッシュの薫陶を受け、また彼はヴィエニャフスキ・コンクール出場のための経済的援助を行っています。
ここで1位に輝いた彼女は、さらにその14年後、不幸なことに兄とともにアゾレス諸島での飛行機事故で命を落としてしまいます。享年31。残された演奏の記録はすべてモノラルでありながらも熾烈な音であったことはCDでも十分確認できます。

こんな天才と正面でぶつからなくて良かった・・・。なんて思えてくるでしょうか。
ここまでの才能が自分の前に立ちはだかるということは極めて低い確率ですが、どんなに努力しても越えられない壁というものがあり、また神が与えたとしか思えない能力の持ち主といえども、不慮の事故の前にはひとたまりもないこともまた事実です。

様々なプレッシャーに耐え、それでもなおコンクールで勝ち上がろうとする学生の皆様に心より敬意を表します。