尾崎紅葉の『金色夜叉』は後の時代の表現者にインスピレーションを与えた作品としてつとに有名ですね。新潮文庫の紹介文によると、
美貌の鴫沢(しぎさわ)宮をカルタ会で見染めた銀行家の息子富山唯継(ただつぐ)は、宮に求婚し、その代償として宮の許嫁間貫一を外遊させることを宮の両親に誓う。熱海の海岸で、宮の心が富山に傾いたと知った貫一は絶望し、金銭の鬼と化して高利貸の手代になる・・・。
新潮文庫では550ページを超えるボリュームでありながら作者の死亡により未完成に終わりました。
それはそれでいいとして、問題はその読みづらさにあります。
いやはや、現代人にとっては読み進めるのがもう難しいこと難しいこと・・・。
冒頭から引用します。
未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切に小き膓は断れぬべし。
元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌されたる日記を涜して、この黄昏より凩は戦出でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥むる者無きより、憤をも増したるやうに飾竹を吹靡けつつ、乾びたる葉を粗なげに鳴して、吼えては走行き、狂ひては引返し、揉みに揉んで独り散々に騒げり。微曇りし空はこれが為に眠を覚されたる気色にて、銀梨子地の如く無数の星を顕して、鋭く沍えたる光は寒気を発つかと想はしむるまでに、その薄明に曝さるる夜の街は殆ど氷らんとすなり。
まずナンノコッチャです。この1ページめで「やめておこうかな」と思ったとしてもまったく不思議ではありません。こんなのをあと549ページ続けるのかと思うと気持ちが暗くなります。とくに忙しい社会人にとっては読み進めるメリットが想像できない以上、当然の判断でしょう。
次に、2022年4月29日朝日新聞の「社説」から引用します。
知床半島沖で消息を絶った観光船の運航会社の社長がおととい、事故後初めて会見した。
尊い人命を預かっているという緊張感をもって、己の仕事に向き合っていたとは思えない。そう断じざるを得ない実態が、次々と明らかになった。
事故当日は強風・波浪注意報が出ていた。午後から天候の悪化が予想され、漁師は出漁を取りやめたり、操業していた船も港に戻ってきたりしていた。だが社長は午前8時ごろに船長と話し合い、「荒れるようであれば途中で引き返せばいい」と出航を決めたという。
耳を疑う話はまだある。
事務所の無線アンテナが壊れていると知らされたが、携帯電話を使うか同業他社の無線を借りれば、船とやり取りできると判断した。陸地と離れてもつながる衛星携帯電話も故障中で、船に積んでいなかった。船長は経験は浅かったが、「センスがある」という知人のベテラン船長の話を聞いて登用した――。(以下略)
こちらは読みやすいです。というか『金色夜叉』の読みづらさが際立ちます。
しかも不思議なことに、絢爛たる文体の『金色夜叉』にも「なんじゃこりゃ」という箇所がけっこうあります。
蒲「金壱百拾七円・・・、何だ、百拾七円とは」遊「百十七円? 九十円だよ」蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」かかる事は能く知りながら彼はわざと怪しむなりき。遊「そんな筈は無い」
台本かよ! と思うような書き方ですね。普通小説では、誰が喋っているのか読者に分かるように男女が交互に語らせたり、一人が広島弁でもう一人が東北弁だったりと、それとなく工夫がされているもの。ただ明治時代にはそういうテクニックが開発されていなかったからこんな書き方になってしまったのでしょうね。
しかも内容としては冒頭の紹介文のとおり、人間的にはけっこうアレな人物が主人公で、女性を「ちええ、膓(はらわた)の腐った女! 姦婦!!」と叫んで砂浜に蹴り倒してしまいます。そして時は流れ、高利貸の手先になっていくのでした。しょうもな・・・。
一応こういう作品が明治時代に流行したこと、また当時の世相を映し出しているという点でも「歴史の証人」として貴重な記録ではありますが、「読みづらい」と思ったその時点で相性が悪いのは明らかですから「逃げるは恥だが役に立つ」で中断するのも手でしょう。
ちなみに武者小路実篤『お目出たき人』にもベクトルこそ違え、ろくでもない主人公が登場します。
「自分は男だ! 自分は勇士だ! 自分の仕事は大きい。明日から驚く程勉強家になろうと自分は自分を鼓舞した。その内にねてしまった」。
これも最低すぎて読んでいてだんだん力が抜けていきます。作者の没後からそれほど時間が経過していないためまだ著作権フリーになっておらず、青空文庫には収録されていないませんが、新潮文庫で手軽に読むことができます。ただし読んだからといって自分が賢くなれるわけではありませんのでご注意ください。
コメント