当たり前の話ながら、あらゆる音楽には終わりがあります。

歌番組とかで紹介される普通の曲なら1曲4分くらいの長さ。Aメロ、Bメロ、サビ、大サビといったパターンで構成されていますね。
もうちょっと長い曲でも10分前後ではないでしょうか。レッド・ツェッペリンの「天国への階段」とかがそうです。

クラシックの曲になるともうちょっと長くなります。ピアノ・ソナタが20~30分程度、協奏曲が30分前後。交響曲なら40分くらいが一つの目安でしょうか。

ベートーヴェンの『交響曲第九番 合唱付き』なら70分、マーラーの大型の交響曲でも100分ほど。
「長い曲」といってもそれくらいの長さで、かならず「終わり」があります。
ずっとこの曲に浸っていたいと思っていても不可能なのです。CDが止まったらもう一度再生ボタンを押すという手段もありますが・・・。でも、音楽は終わりがあるからいいんです。


終わりがあるから、音楽はいい

才能教育で有名なヴァイオリン教師・鈴木鎮一さん。1898年愛知県に生まれ、17歳でヴァイオリンを始めています。23歳でドイツに留学を果たし、アインシュタイン博士とも親交があったのは有名な話です。

彼はドイツでモーツァルトの真髄に触れ、深い感動を覚えたと言われています。「モーツァルトの音楽に驚き、感じたものは、その超人的な愛情でした」。私もモーツァルトの『ピアノ協奏曲第9番 ジュノーム』を聴きながらこの記事を書いています。うっとりするような音色・・・、これが200年以上昔の作品だなんて・・・。

この愛情にひそむものは、人間の深い悲哀でした。この世に生まれて、やがて死んでいく、この人生のはかなさ、さびしさ――そこはかとない、しみ入るような哀愁です。この哀愁を、短音階のみならず、モーツァルトは、実に長音階において、深い愛情のなかに表現したのです。生も死も、人間がどうしようもない大自然の営みでした。その必然としてモーツァルトの哀愁とともにあるものは、しみじみとした諦観です。

(鈴木鎮一『愛に生きる』講談社現代新書より)

あらゆる人間は必ず「死」を迎えます。ロックフェラーのような大富豪であっても、ナポレオンのような英雄であっても・・・。私も、あなたも、いずれは「その時」が訪れるのです。モーツァルトはそのことを言葉ではなく音符を並べることで表現したのです。

これが無限に続くとしたらどうでしょうか。いつ始まったのかはっきりせず、終わることもなければ「このメロディを聴くのもこれが最後かもしれない」という切なさもなければ、「またあとで聴けるから」ということで一回限りにつきものの緊張感もなくなり、そうなると弾くほうも聴くほうも本気を出す理由がなくなります。もう「芸術」の名に値しなくなるばかりか、情緒もへったくれもなくなってしまいます。

たとえば野球でもそうですよね。9回裏で終わるのではなく、19回でも29回でも無限に試合が続くとしたら、たとえ0対100でもいつかは逆転のチャンスが訪れることになりますから、がむしゃらに「必ずアウトを取ろう」と意気込まなくても大丈夫です。

受験生だってそう。「この1年で努力しよう」なんていう意気込みは無用。300年でも500年でもエルフみたいに若いままなら、何度だって東大にチャレンジできますから。

そう、「時間が無限に続く」というのは人間のやる気を失わせる罠でしかないのです。

コンサートも、いや一つ一つの音楽作品も、終わりがあるからこその儚さであり、思い出であり年を重ねるうえでの味わいになっていくのでしょう。
私はリヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』のうちとくに「眠りにつこうとして」が好きです。この曲を聴きながら、毎年のようにいろいろな感情を蓄積しています。いつか私にも「その時」が訪れる、そう遠くはないはずの未来まで、どれだけの思いを積み重ねられるのでしょうか・・・。