J.R.R.トールキンの大作『ホビットの冒険』と『指輪物語』には様々なドワーフが登場します。
トーリン、バーリン、オイン、グローイン、フィーリ、キーリ・・・、数えればきりがありませんが最も有名なのは9人の指輪の仲間の1人であるギムリでしょう。

中つ国ではおそらく唯一の事例であろうロスロリアンを訪れたドワーフとなったばかりかガラドリエルから髪の毛を賜り、さらには闇の森の王子レゴラスと深い友情を結び、やがては彼と共に西の国へ船出したと伝えられています。
『ロードス島戦記』のギムはこのギムリにちなんで名付けられたとか。

作中で何度も何度もギムリという名前が登場するのでギムリはギムリなんでしょうと思いきや、「追補編」までたどり着いたところでとある事実が明かされます。

ギムリの本名はギムリじゃなかった・・・。


誰も知らないドワーフの名前

追補編にはこう書かれています。
しかし、ギムリという名も、かれの一族のドワーフたちの名も、北方の(人間の)ことばから出たのである。かれら自身の秘密の、「内向きの」名前、かれらの本当の名前は、決してどのような異種族にも明かされなかった。墓にさえ、これを刻むことはなかったのである。

ドワーフの言葉というのは伝承を伝えるための手段であって、過去から伝えられてきた宝物のように大切に守ってきたらしく、他の種族で彼らの言葉を覚えた者はいないとか。
たしかに『指輪物語』でも「アイヤ エレニオン アンカリマ!」のようにエルフの言葉はたびたび登場しますが、ドワーフの言葉といえばギムリの鬨の声「バルク カザド! カザド アイ=メヌ!」(ドワーフの斧を受けよ! ドワーフが汝らを討つぞ!」くらいしかありません・・・。

墓碑銘にも刻まれることがないということは、本当の名前は自分だけが知っていて、その人(ドワーフ)が死んでしまえば忘れられてしまうのです。当然ギムリの本当の名前もわからないまま、『指輪物語』は本編だけでなく「追補編」も終わります。

作者トールキンはオックスフォード大学で英文学を講義しており、専門は古英語(Old English)、中英語(Middle English)の言語学(文献学)でした。
といっても古代~中世イングランドの記録はノルマン・コンクエストによってあらかた失われてしまい、わずかに現存する文献を比較することで当時の言語や史実そして伝承の本来の姿に近づくことができます。

たとえば「王様が龍を退治して財宝を手にして国を繁栄させた」という物語があったとして、文献Aにはそう書かれていても文献Bには「王様が龍を退治したが、深手を負って相打ちになった」と書かれていることも。こうなるとどちらが本来の姿なのか、筆写間違いや筆写した人の創作が混ぜられているのではないか・・・、AとBに影響関係はあるのか・・・などという調査をして、AとB以前にZというバージョンの物語があるのではないかという理論を立ててみたりとか・・・。

ただこれは「文献」が残っていればの話であり、次世代へ伝えられなかった事実や物語というのもあるはずです。ドワーフの本名は誰も知らないというのは、人知れず歴史の波間に沈んでいった様々な出来事へのトールキンなりの密かなオマージュなのかもしれません。