大作曲家マーラーの最後の大作となった『交響曲第九番』。
彼はベートーヴェンが9つの交響曲を残して死んでしまったことにジンクスを感じていました。だから9番目に作る交響曲を『大地の歌』と命名してナンバリングしませんでした。

その次に作った交響曲を「第十番」としたものの、マーラーの死後それは『交響曲第九番』として扱われています。大変皮肉な結果に終わりました。

人生の終わりに作曲した作品なだけに、1番から『大地の歌』までの経験を踏まえているはずであり、さぞかし素晴らしい作品なのだろうと思いきや・・・。

途中で寝ちゃうんだよ! という人がいるのも事実です。

いったいなぜ・・・。

マーラーの『交響曲第九番』が退屈に感じられるワケ

そもそもこの作品に限った話ではなく、マーラーの交響曲はどことなくまとまりが悪い傾向があります。
ためしにベートーヴェンの『交響曲第五番 運命』を聴いて、立て続けにマーラーの『交響曲第五番』を聴くとわかります。

ベートーヴェンはひとたび音楽が始まってしまえば、必然的とも言えるようなドラマチックな流れで最終楽章へ突き進んでいます。いわば迷いとか無駄とかいうものがなく、引き締まっているのです。

ところがマーラーの場合、いろんなものがあちこちに散らばっていて「なんじゃこりゃ?」「この場面本当に必要なの?」という気がしてきます。いわばウィンドウズのデスクトップにいろんなファイルやフォルダが並べられていて全然整理されていないような。

聴いていてなんとなく寝てしまうのはこのあたりに原因があるのではないでしょうか。

では肝心の『交響曲第九番』はというと、作曲家・佐藤眞さんは次のように語っています。

第4楽章というのは、普通、組形式、たとえばソナタを書くときに、第4楽章、最終楽章が遅いというのは、そこに全曲の重心があるんだな。一番大事なところで、そこを聴かせたいわけだ。マーラーも、こういう俗っ気があって、そこで感動させてやろうという意気込みは大いに感じられる。それはそれでよい。弦楽器群の、多勢で重厚な響きで圧倒し感動に導こうとしているね。ここを先途と力の限りを込めて書いている。
たしかに最終楽章はマーラーの辞世の句とも言える内容であり、名残惜しそうに消えてゆく最後の音はこの地上にとどまり続けたいという彼の願いであるように思えてなりません。

ところが、
レントラーの第2楽章とブルレスクの第3楽章、これは結局、第4楽章をうまく聴かせようと書いていて、いわば「捨て」なんだ。ブルレスクは、短い断片的な音型をテーマにしていて、聴き手にたっぷりと長い旋律の出現を求めさせるための「捨て」の役割。ただそういうことはマーラーだけでなく、いわば作曲の常道だけど。
なんてこった! 全曲はおよそ75分程度ですが、そのうち27分程度(およそ1/3)は「捨て」に使われているということは、無駄が多いということでもあります。

まずただならぬ気配で始まる第1楽章が配置され、そのあとに「一体何が来るんだ?」と身構えていたら「捨て」。その次に「捨て」。そりゃ退屈を感じますよ・・・。それでテンションが落ちきったところで「演歌」が来るわけです。「演歌」にしびれるのは悪いことではありませんし、それで感動して帰宅するのも良いでしょう。ただ私達が買ってきたCDやコンサートのチケットは「捨て」込みの価格だというのもまた事実です。

もともとマーラー自身は指揮者でもあり、本職はむしろそちらでした。
夏休みなど、まとまった休みの時期に集中して作曲を行っていたようですが、やはり専業の作曲家として「才能があろうがなかろうが、毎日とにかく書く」という生活パターンではなかったことが災いしたのでしょうか、どうしても「ベートーヴェンなら5分で表現しているところをマーラーは15分もかけている」ような構成の甘さが多くの作品で見受けられます。

作曲家の能力の違いだと言ってしまえばそれまでですが、マーラーほどの能力をもってしても人を引きつけ続けることは難しいようです。歴史に名を残すための道はかくも険しいのでした。