中学や高校の制服が嫌いだという人は一定数いるはずです。

デザインがダサい、学校のイメージを強制されるのがうざい、一定の「枠組」に勝手に当てはめられてしまうのが苦痛だ・・・。

いろんな「嫌」があります。逆に毎日のコーディネートを考えなくて楽だという考えもありますが・・・。女性は社会人になってからそれでけっこう悩んだり、金銭的負担があったりしますからね。

が、はっきり言っておきます。制服が嫌いな人、おめでとうございます。一人で行動できるマンの素質があります!!

制服が嫌いなのは本能的な警戒感から

制服が嫌いな人の考えは、要するに「鋳型にはめ込まれたくない」ということにまとめられます。

制服が好きだ・必要だと言う人はこれと逆で、みんなが同じ服を着ているから意味があるのだ、一人違う服装をしていると、制服の意味が失くなるという立場です。

これは個人主義と集団主義の違いであり、永遠の平行線をたどるのです。

制服が嫌いだという人のためにすこし歴史のお話をしておきましょう。
数年前、とあるアイドルグループの衣装がゲシュタポ(ナチスの秘密警察)の制服に似ていると非難されたことがありました。デザイナーは単にかっこいい制服を調べていたらゲシュタポにたどり着いただけなのでしょうけれども、ドイツ軍の軍服なりゲシュタポなどナチスが産み落とした組織の制服には魅力があり、だからこそナチズムは今なお警戒すべき思想であることは間違いありません。

ナチスとは国民一人ひとりの意志がそのまま国家の意志と直結しており、つまり国民と国家が完全に一体化している社会を目指していました。
つまり「わたし」というものはそもそも想定されておらず、したがってナチスは党員のみならず公務員はもちろんあらゆる組織に制服を着用させました。そうすることで国民同士の連帯感や国家への帰属意識、みんな同じ服装であるという平等感、安心感、ひいてはドイツ人だ(我々はユダヤ人じゃないぞ)という意識が芽生えて来ます。

しかも軍服がそのわかりやすい例ですが、その服を見ればどこに所属していて、どんな役職で、どういう権限が与えられているか一目でわかります。これはとても便利な記号なのです。

ところが制服には致命的欠陥がありました。
たとえば海軍とかナチス婦人連盟とかの制服があったとして、そこに「その人」のパーソナリティは投影されていません。つまりナチスという体制にあっては、制服を着ている「Aさん」「Bさん」という個人そのものは重要視されず、あくまでも制服が指し示すものがすべてであったのです。

日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」とあります。私たち人間は、それぞれが個性をもった「個人」として、自分自身の生き方や考え方をもっています。それは多様であり、「個人」は誰ひとりとして同じ人はいない、かけがえのない存在です。「個人として尊重される」ということは、お互いの違いを認め合うことで相互に人権を尊重するということにもつながります。ナチスがあらゆる国民に制服を着せたのは、こうした考え方に完全に対立するものです。

ということはナチス体制にあっては国民一人ひとりがそれぞれに幸福を追求することは実質的に認められておらず、ただただ独裁者の意思の道具として働くことを嬉しく思うくらいしか選択肢が残されていないことになります。

どうでしょうか。あなたが制服に嫌悪感を持つのは、ナチスの事例のように「私とは違う意思を強いられている」と本能的に察知しているからではないでしょうか? 

もう一つの事例は、新選組。

えっ、幕末に活躍したあの新選組?? と思うかもしれません。
そうです。新選組は、浅葱色のダンダラ模様の入った羽織を隊服としていたと伝えられています。
ところが歴史学者の磯田道史さんに言わせると、「制服を着て一体感を高めるなんて、農民の発想ですよ。本当の旗本だったら、『なんで俺が隣の奴と同じ服を着なきゃいけないんだ』ってケンカになっちゃいますよ」。

農民の発想・・・。つまり横並びでみんな同じ作業をするのが良しとされ、一人だけ効率よく仕事を片付けて「お先に失礼します」なんて言ったら悪目立ちして評価が下がってしまう集団です。
日本のサラリーマンが、周りよりも早く帰宅しづらくてついあまり意味のない残業をしてしまうのもまさにこのためです。


さて、ここまで制服が嫌いだという人のために歴史的なことを掘り下げてきました。
もうおわかりだと思いますが、制服が嫌いだと言う人は、そもそも「制服」が嫌なのではなくて、「集団」のなかに十把ひとからげにまとめられて放り込まれてしまうことに抵抗感があるのでしょう。
つまり「普通の日本人」ではないのです。

このことを若いうちから自覚できればしめたものです。あなたにはいついかなる局面でも一人で行動できる素質があります。
なぜなら、自分は何が嫌なのか。逆に何を良しとするのかを就職前から存分に向き合うことができる感受性があるからです。すくなくとも〇〇銀行とか☓☓自動車のような集団行動が求められそうな会社にはぜったいに就職すまいという強い意志を養うことができます。

では自分は何になるのか。弁護士や司法書士のような士(さむらい)業でもいいですし、研究者になってもいいですし、小説家や放送作家のような自由業を志す道もあります。
いずれもラクな商売ではありませんが、「みんなと一緒が嫌だ」という感性を持つ人は、一定数そういうルートを目指すようです。

どうかご自身の「制服が嫌い」という「他の誰でもない”わたし”の気持ち」を大切にして将来を考えていただければと思います。