バカに恵む時間はない! 1秒もムダに生きるな。
堀江貴文さんの『時間革命』の表紙にはこのようなキャッチコピーが書かれています。

時間の貴さは私のこのブログでも繰り返し説いてきました。
なぜ時間が貴重なのか。改めて言うと、

・お金は稼げば損失を取り返せる

・しかし、失われた時間は二度と戻ってこない

・そして、人間の命=時間は有限である

これに尽きます。『時間革命』も似たようなことが書かれている・・・、ので私はこの本を正直に言って読む必要がなかったですね・・・。

とはいえそれでは身も蓋もないので、自分なりの考察を書きとめておきます。

堀江貴文さん『時間革命』

この本の本質は、時間には2種類あること、それは「自分のための時間」と「他人のための時間」があり、前者を増やして後者を減らせば自分の人生の満足度が高くなるという主張にあります。
そのために「常識や世間体」「ムダ」「将来への過剰な不安」「不健康」を排除し、目の前のことに「夢中」になれと説いています。

なぜ私が友だちがいないことを幸せに感じるのか、それは人付き合いによって時間が減るからです。
この「他人時間」を削り、自分のための時間=ヴァイオリンの練習とジョギングに費やすこと。私はこれをずっと続けています。

堀江貴文さんの『時間革命』は、ご本人がそれを意識したかどうかは別として2000年前に古代ローマの哲学者、セネカのコピーだとも言えます。
セネカは『人生の短さについて』という本のなかで、人生は短いのではなくて、その大部分を浪費しているのだと指摘しています。
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。

(中略)

われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。たとえば莫大な王者のごとき財産でも、悪い持ち主の所有に帰したときには、瞬く間に雲散してしまうが、たとえ並の財産でも善い管理者に委ねられれば、使い方によって増加する。それと同じように、われわれの一生も上手に按配する者には、著しく広がるものである。
『時間革命』もこれと同じです。


渡辺和子さんの『面倒だから、しよう』

岡山県の私立大学・ノートルダム清心女子大学の学長を経験された渡辺和子さん。『置かれた場所で咲きなさい』はベストセラーとなりました。この本のなかで、渡辺和子さんは「時間の使い方は、そのまま命の使い方なのです」と学生に諭していました。

堀江貴文さんの主張は時間=命。

二人の性格は絶対に合わないでしょうけれども、時間をめぐる価値観は不思議と一致していました。

その続編ともいえる『面倒だから、しよう』では、
「お金儲けして何が悪い」「お金で人の心も買える」と拝金主義をはっきり表明した人たちもいて、このような考えが弱肉強食の社会、格差を拡げる世の中を助長しています。
と堀江貴文さんを意識した文章が掲載されているので、本当に性格が合わなかったんですね。

もし永遠に生きられるなら?

もしも私たちが『ロード・オブ・ザ・リング』のエルフ族のような永遠の命を獲得したらどうなるでしょう? ありとあらゆる問題を先送りしてもまったくOKになるため、たとえば「今年こそ絶対に東大に合格しよう」という気持ちにはならないでしょうから、「努力」とか「向上心」とかいう言葉が無意味になるのは想像がつきます。
さらには、自分の目の前には無限の未来が広がっている以上、「あのときああしていれば」「次は同じ轍を踏むまい」という反省を感じることもなく、「この桜を二度と見ることもあるまい」のような、もののあわれが心の中に湧きあがることもないでしょう。

つまり人間らしい感情のほとんどを心に抱く原因そのものが消滅してしまうということになります。言い換えるなら、私たちが生きていく中で深く心を動かされる様々な思いが失くなるわけですから、限りなくロボットに近づいていくことになります。

そう考えると、「死」=「命には限りがあること」こそ私たちが人間らしく生きていく条件であるとすら言いたくなります。限りある時間のなかで、それをいかに有意義に使うか、そして次世代に何を手渡せるか。これが私たち一人に課せられた「問い」です。
この答えなき「問い」に答えを出そうと真摯に向き合った時、私たちはただ「生きている」のではなく「生きていく」ことに目覚めるのでしょう。

さてこのブログ記事のタイトルは「堀江貴文さん『時間革命』に見る時間の貴さ」と題していますが、読書体験としては渡辺和子さんの『面倒だから、しよう』のほうがはるかに勝ります。

・・・? じゃあ、一体なんのために『時間革命』を読んだんだろう・・・?