私は普段大学入試関連の仕事をしており(厳密に言うと、最近までしていた、ですが)、総合型選抜・・・少し前まではAO入試と呼ばれていた入試の出願書類をしょっちゅう読んでいました。

出願書類というのは、英語の能力を証明する書類や学校の先生が作成する調査書の他、志願者が作成する志望理由書や小論文などです。

大学入試の実施にあたって、大学の個性を反映したアドミッション・ポリシーというものがあり、これに適合した学生こそうちの大学にチャレンジしてほしいということが書かれています。
たぶんあなたの大学のホームページにもアドミッション・ポリシーの他にカリキュラム・ポリシー(教育課程編成)、ディプロマ・ポリシー(学位授与方針)が明記されているはず・・・。

これによって各大学の「カラー」が明確になり、受験生にとって大学を選びやすくなるはず・・・でした。とくにAO入試・総合型選抜では受験生のパーソナリティや何をどのように学びたいのかという意欲、そして大学が求める人材像のマッチング度の高さを評価するもの。ペーパーテストのような1点刻みの勝負ではなく、受験生の学力や意欲などを総合的に判断するので、暗記力を重視した学力偏重から脱却する入試になるはずでした。

でも実際には・・・。

受験生たちの志望理由書や小論文にみんな同じようなことしか書いてないというパラドックスが発生しているのでした。

受験生たちの言うこと・書くことがみんな同じで見分けがつかない!!

太田肇氏『同調圧力の正体』という本には面白いことが書いてあります。

上記3ポリシーを厳格に運用する大学ほど、学生を特定の「型」にはめてしまう弊害のほうが大きくなる。さらには近年は多くの大学が個性的な学生を増やそうという趣旨から選抜方法を多様化し、「AO(アドミッション・オフィス)入試」や推薦入試を取り入れるようになったため、高校の内申書(注:調査書のことか)を気にする生徒が増えてきた。内申書によい記載をしてもらうには、模範的な生徒として振る舞い、教師に好かれることが大切だと考える。それが生徒の姿勢を受け身にし、行動を制約してしまう。
つまり個性重視の入試にチャレンジするためには、逆に個性を発揮しないことが近道になってしまうという謎現象が起こってしまうというのです。

実際に調査書を読んでみると、「この生徒は責任感が強く、ハンドボール部の副部長を務め、云々」のように「いいことしか書いていない」のが普通ですが、生徒はそんなこと知るよしもありませんから模範的生徒であるように振る舞わなければなりませんね。

そういう調査書とともに送られてくる小論文や志望理由書も、みんな同じようなことばかりで見分けがつかないのです・・・。

例えば「国際関係学科」という学科の総合型選抜に送られてくる志望理由書は、こんなものがやたらと目に付きます。

・日本のジェンダーギャップ指数を見て衝撃を受けた。日本はまだまだ女性が社会進出を果たせていない。私の母親を見ていても古い価値観に縛られている。だが私はその現状を変えたい。

・発展途上国と先進国の格差に驚いた。発展途上国では1日1ドル以下で生活している人がこれだけいるが、先進国に住む私は何ができるか考えた。入学後にはこういう格差を解消するアクションを起こしたい。

・ノーベル平和賞を受賞したマララさんの本を読んで感銘を受けた。女性の地位向上のためには教育が不可欠だと考えた。私は将来教師になって、かくかくしかじかのことに取り組みたい。

読めば読むほど、「マララさんの話って毎年送られて来るよね」という気持ちになります。
就職活動をする大学生は中谷彰宏『面接の達人』を読んだことがあるでしょう。あれの「大学入試版」みたいなものが出回ってるんじゃないか? という疑いが心のなかにムクムクと湧き上がってきます。それくらい受験生の話は似通っているのです・・・。にしてもこいつらの悩みは地球規模だな!

そして半年後。厳しい(?)選抜をくぐり抜けて大学生になった彼らは、学食で適当にだべっています。

「俺、公務員試験やっぱやめようかな。めんどくせーし」

「おすすめのアニメ教えろ」

なんだ、やっぱり受験のときだけもっともらしいことを言ってただけじゃないかよ!!