2022年1月8日、浜離宮朝日ホールで開催された髙木凜々子さんのヴァイオリンリサイタルは、私もお世話になっている黒澤楽器店から貸与されてのストラディヴァリウス「ロード・ボーヴィック」の音色を堪能できる素晴らしいものとなりました。

以前も彼女のリサイタルをブログ記事化したことがあり、改めて日付を調べてみると2020年11月7日とありました。ということはもう1年3ヶ月ぶりということになります。
前回のリサイタルでは、私は次のような感想を書きました。

髙木凜々子さんのこの日のリヒャルト・シュトラウスでもやはり艶やかな輝きに満ちており、一つ一つのフレーズを丁寧に磨き上げる練習を十分に行ったうえでの本日の本番だったことが想像されます。
確かにリヒャルト・シュトラウスといえば後期ロマン派に属する作曲家であり、『英雄の生涯』『ツァラトゥストラはかく語りき』などのようにきらびやかなオーケストレーションで知られる彼だけにヴァイオリン・ソナタにおいてもそういう響きがします。

では2022年1月8日のリサイタルはどうだったのかというと・・・。

深々とした音色を響かせるストラディヴァリウス

今回はベートーヴェン、バッハ、ブラームスとドイツ三大Bが並ぶもの。
特にバッハの『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番』より「シャコンヌ」、ブラームス『ヴァイオリン・ソナタ第3番』など重量級の作品をプログラムに採用していることからも意気込みが伺われるではありませんか。

ベートーヴェンの「ロマンス第2番」においては、音の粒立ちがはっきりしていることにまず驚かされます。それでいて、単なる音の上下運動に陥らず、ベートーヴェンがたまに見せる憂いやため息といった人間味あふれる表情を思わせる情感に溢れていました。

バッハの「シャコンヌ」では、厳粛でありながらもやはり一音一音がクリアに聴こえるだけに明快な響き、さらにニ長調に差し掛かると祈るかのような宗教的世界へ。そのまま後半へ突入し、最後は霧のようにホールの彼方へ消えてゆく音・・・。2曲めにこのような重い曲を持ってきて大丈夫なのかという私の懸念はただの杞憂でした。私はこれまで何人ものヴァイオリニストによる「シャコンヌ」を聴いてきましたが、髙木凜々子さんの「シャコンヌ」もまた個性がはっきりと刻印された演奏であったことは確かでしょう。

続くクライスラーの「愛の悲しみ」「愛の喜び」では洒脱な雰囲気にあふれ、先程までの「シャコンヌ」の気分をガラリと切り替えていました。曲の世界観に即応できるのもまたプロの条件の一つであることは間違いないでしょう。

休憩後にブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ第3番』。「シャコンヌ」と同じくニ短調が用いられたこの作品には作曲家の諦観が込められており、「もうあの時は戻ってこないのだ」「私はこのまま残された時間を生きて、そう遠くない将来にこの世と別れるのだ」とでも言いたげな音の世界が広がってゆきます。
髙木凜々子さんがこの日のリサイタルで表現したかったのは、バッハもそうですが「人の情念」だったのでしょうか。深い音色がホールにあふれるとまるでブラームスの肉声を聴いているようで、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という辞世の句を思い出させるほど。

ラヴェルの「ツィガーヌ」にあってはハンガリーのロマ民族の情熱の昂り、民族舞踊における熱狂など、力強さのなかにもふっとした翳りが顔をのぞかせます。

アンコールではクライスラーの「ロンドンデリーの歌」。彼女自身はどうやらギトリスの演奏がお好きらしく、いやそもそもあえて「曲がった音」を出すことを厭わず、自らの表現に昇華してしまう彼の芸風を研究するあたりが、彼女のヴァイオリニストとしての音楽性の根幹にあるのでしょうか。
言わずと知れた名曲「ダニー・ボーイ」の旋律を様々な弦で歌い上げるこの作品は有名なだけにややもすれば「ああ、あれね」で通り過ぎられてしまいがちですが、そこは「ロード・ボーヴィック」の力に導かれたのか、染み渡るような深い音色を響かせ、そして波が引いてゆくかのように消えてゆきます。

こうしてこの日のリサイタルの感想を自分なりにまとめてみると、「人間のもつ心の最も深い部分」に分け入ろうとする試みであったように思えてなりません。しかしたった4本の弦で人間の心を表現しようとするのは、なんという無謀な挑戦であり、そしてなんという美しさに満ちあふれているのでしょうか。

髙木凜々子さんはまだ桐朋学園大学の大学院に在籍中とのことで、これからますます音楽に磨きをかけて様々なメッセージを私達に届けてくれることでしょう。この1、2年ほど外国人演奏家の来日が制限される一方で若いヴァイオリニストに光があたり、様々な発見がありました。次世代を担う彼ら・彼女たちの躍進に大いに期待が持てます。