このブログは「友だちいない研究所」と言います。
陰キャな私には友だちがいません。必然的に年賀状というものももらいませんし、書いていません。

それでもなぜか元旦に2,3枚くらいは不幸にも年賀状が届いてしまうのでした。

なぜ、こんな大して読みもされない葉書をこだわって作るだろう? プリンタ会社の陰謀だろうか? 日本郵便の策略だろうか? いやただの惰性だろうか? たぶん3番目がいちばん正解に近いだろう。

毎年そんなことを考えていました。

同級生たちが結婚し始めると、「結婚しました」「子どもが生まれました」のような内容の年賀状が目立ち始めました。結婚しました、これはまだ分かります。でも「子どもが生まれました」まで来ると、ただの親ばかを披露しているようで、そもそも他人への関心に乏しい私はますます年賀状の意味が分からなくなってくるのでした。

ありがたいことにデジタル化という社会の流れは年賀状の流通枚数を減らしつつあります。これにはコロナという後押しもありました。



時間は命

いつも言っていることですが、時間=命。
岡山県の私立大学、ノートルダム清心女子大学の学長、理事長を歴任した渡辺和子さんは学生たちに「時間の使い方はそのまま命の使い方なのです」と説いていました。
渡辺和子さんとは絶対に性格が合わないであろうライブドア元社長・堀江貴文さんもやはり「時間=命」と主張しています。
漫画家・三田紀房さんも『インベスターZ』において「時間は命だ」という台詞をキャラクターに言わせています。

正月の、何もせずにゴロゴロしているだけの時間を過ごしている間にも、私たちは確実に「死」に近づいています。年賀状のような、作成の手間の割に、相手に届くことによって期待される効果が薄いものと関わることは自分に残された命を無駄使いしているように思えてなりません。

古代ローマの哲学者、ルキウス・アンナエウス・セネカも『人生の短さについて』という本のなかで、人生は短いのではなくて、その大部分を浪費しているのだと指摘しています。

人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。
(中略)
われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。たとえば莫大な王者のごとき財産でも、悪い持ち主の所有に帰したときには、瞬く間に雲散してしまうが、たとえ並の財産でも善い管理者に委ねられれば、使い方によって増加する。それと同じように、われわれの一生も上手に按配する者には、著しく広がるものである。
この観点から、年賀状というものがいかに私たちの貴重な年末年始の時間を奪っているかを改めて考えてみると、年賀状を送ることによって「得るもの」よりも「失われるもの」のほうが大きいと言えるのではないでしょうか。

私はこのことに気づき、自分から年賀状を送ることをやめました。年賀状を受け取ってしまった場合は、社交辞令的なメールをとりあえず送ることにしました。

え、それだと人間関係が切れてしまうでしょうって? いえいいんです、私みたいな性格の人は、心身ともにリラックスできる極上の時間が「誰ともコミュニケーションを取っていないとき」なんです。

この記事を書いているのは2022年の元旦ですが、今日は街が静まり返って、いつも以上に閑散としていました。4時間ヴァイオリンの練習をし、小1時間ほどジョギングし、三島由紀夫の『金閣寺』を読み耽り、モーツァルトのCDに耳を傾ける・・・。自分の周りに誰もいないって最高かよ!