三島由紀夫の代表作『金閣寺』を20年前に読んだ時はまったく気づかなかったものの、つい最近改めて読み返してみて、そのきらびやかな文体にうっとりとなりました。

最初は電車の中で読んでいたものの、電車で読むっていうレベルじゃねーぞ!
(「物売るってレベルじゃねーぞ!」を思い出した方、きっと同世代の方ですね)




言うまでもなく『金閣寺』は現実の金閣寺放火事件に題材を得て三島由紀夫が完成させた不朽の名作にして彼自身の代表作でもあります。

「美」というものが確固として存在するのに、そこに手を伸ばそうとしても届かない・・・。主人公・溝口の抱える葛藤が繰り返し繰り返しいろいろな姿をまとって現れ、金閣寺はその最たるものでした。

金閣寺の学僧として修行に励む溝口は金閣寺をこう語ります。
この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。

そして溝口は金閣寺を「時間の海をわたってきた美しい船のように思われた」とも表現します。

なんだこの美しい文章は・・・。どうして20年前の自分はこの素晴らしさにまったく気づかず、ばかりか途中でブックオフに売ってしまったのでしょうか。いえブックオフに売る手間を惜しんで廃品回収に出してしまったのかもしれません。そもそもいつ処分したのかすら記憶にありません。おかげでもう1回買ってくる羽目になるなんて、私の目がいかに節穴かよく分かりました。

人は言葉で迷い、言葉で悟る

金閣寺と同じく京都・真言宗総本山教王護国寺(東寺)で毎週日曜に法話会を続けている山田忍良(やまだ にんりょう)さん。この方は法話で配布しているプリントが300号を超えたことをきっかけに『人間は何度でも立ち上がる』を出版しました。(『金閣寺』はフィクションですが、山田忍良さんは現実に存在する方です。)

山田さんは「私たちは、言葉で迷い、言葉で悟ります」と述べています。言葉で考えをまとめたり、感情を感情として認識します。言葉一つで喜怒哀楽を感じるのは、まさに言葉に導かれることもあれば、絶望することもある証です。

そう考えると『金閣寺』の溝口は、吃音がコンプレックスであり、必然的に内向的な人格が形成されることになり、常に自分と向き合う過程で上記の引用のような「言葉」を心のなかに蓄積していったものと思われます。

普通の人であれば金閣寺に放火しようなんて絶対に思いません。
溝口が金閣寺を焼いてしまおうと思い立ったのは、まさに彼自身が「そういう世界観」を築き上げてしまったからに他ならず、「そういう世界観」は言葉によって作られたものです。

『金閣寺』は一人称告白体で書かれており、すべてが「溝口の世界観」であるとも言えます。
であれば、きらびやかで美しい文章でありながらも、じつは「破滅」と手を携えているのであり、そういうことは実際には起こりえませんから、あくまでもフィクションであると受け止めざるを得ません。

逆にフィクションをフィクションとして評価できず、「これって美しいじゃん!」と真に受けてしまうと・・・、溝口2号が誕生してしまいます。美しい文章なだけに、「現実にはそんなものありっこないんだよ」と気づくこともまた大事だと思います。


注:「物売るってレベルじゃねーぞ!」と叫んだ人物は、のちにモノウ・ルッテレ・ベルジャネーゾ卿と命名され、神格化されるようになりました。