『アンネの日記』を初めて読んだのが2021年春。それ以来、彼女の伝記や隠れ家生活の支援者の話、そのほかの強制収容所の体験記を読み進め、さらにはナチスという組織の特徴、ナチス関係者の証言、これを受け入れたドイツ・オーストリアの様子など、いろいろな本を読みました。陰キャでナチスに詳しいなんて、「友だちいない研究所」の名にふさわしい自分になれたことがとても嬉しいです。

しかし、ナチスのことを調べても調べても、なぜヒトラーのような人物が支持され、ドイツ・オーストリア国民がナチスの政策に迎合していったのかがいまいちしっくりこないのでした。

第一次世界大戦前、ドイツ帝国はごくわずかの西洋諸国でしか達成していない高度の法的安定性、参政権、表現の自由、教育へのアクセス、生活水準の向上などが達成されていました。これは大戦前のわずか25年程度で実現されたことであり、伝統的な生活の姿と近代化を図るベクトルの軋轢が大きかったようです。

この葛藤はやがて「国民」という集団に属することで克服されるようになり、その際に「非ドイツ人」すなわちユダヤ人を排除するというエネルギーをも生むようになっていったようです。

以上はウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国』という著作から学びました。
なるほど、よくわかりました。

わかりましたが・・・。

単なる表面的な知識で終わってしまいそうです・・・。


その時代の空気感がわからないとナチスもわからない?

学べば学ぶほど、ナチスについての知識は深まるのですが、実感としてナチスにリアリティを感じ取ることがいまだにできません。
少なくとも冷戦時代の東ドイツの緊張感は、当時のことを扱った小説や映画を見ることで間接的に共有できます。

しかし私はドイツ帝国時代を舞台にした小説なんて、トーマス・マン『ヴェニスに死す』『トニオ・クレーゲル』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』『青春はうるわし』『クヌルプ』『春の嵐』、これくらいしか知りません。しかも『春の嵐』なんて「読んだことがあるけど、タイトルど忘れしちゃった」とか思いながら検索して題名を思い出しました。

ヘッセの第一次世界大戦前の小説を読むと、いずれも美しいドイツの田舎町の姿が目に浮かびます。おだやかな稜線を描く丘、咲き乱れる花、小川のせせらぎ、水面に反射してきらめく陽の光・・・、いろいろな情景が心の中に現れては消え、ノスタルジックな気分になります。

が、急成長を遂げたドイツ帝国とそのなかで生まれてきたひずみというのはやっぱり理解できません・・・。

思えば昭和40年代のウルトラマンシリーズで公害を題材にしたエピソードが多いのも、高度成長期の影で様々な問題が噴出していたからであって、水質汚染や大気汚染による健康被害なんて、平成生まれの人には理解しがたく、彼らに当時のウルトラマンを見せても肌感覚として(製作者のメッセージが)「わかった!」と言ってもらえることはおそらく無いでしょう。とすれば私がドイツ帝国のことを「わかった!」と言えないのもきっと同じことでしょうね。

というわけでナチスについて理解を深めるために(?)今度はドイツ帝国時代に発表された・ドイツ帝国時代を舞台にした小説を探しまくる羽目になるのでした。「わかった!」への道は果てしなく遠い・・・。