長年にわたり岡山の名門女子大学、ノートルダム清心女子大学の学長、理事長を務められた渡辺和子さん。『置かれた場所で咲きなさい』『面倒だから、しよう』はベストセラーになりました。

『面倒だから、しよう』では来日したマザー・テレサの通訳として随伴したときのことが書かれていました。これは講演会か何かでしょうか、マザー・テレサの話の後、一人の男性が質問をしたそうです。

「なぜ少ない薬や十分とはいえない人手を、手当てしても死んでしまうに違いない危篤の人たちに与えるのですか」と。その男性は暗に、無駄ではないですか、とおっしゃりたかったのでしょう。
たしかに医療の現場では「トリアージ」という概念があり、この考え方に基づけば、男性の質問は「確かに」と言えるものです。
トリアージとは、
災害発生時などに多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めることです。 災害時の医療救護に当たっては、現存する限られた医療スタッフや医薬品等の医療機能を最大限に活用して、可能な限り多数の傷病者の治療にあたることが必要です。
(東京都福祉保健局)

この観点から言えば、マザー・テレサの行為は無駄ということになるのですが・・・。

言うまでもなく、マザー・テレサは「死を待つ人の家」をカルカッタで運営し、路上などで死にかけている貧しい人たちを引き取り、そこで安らかに死を迎えてもらう最後の看取りをしていました。
これは経済や効率の問題ではなく、人間一人ひとりが尊厳のうちに生き、かつ死ぬことができるようにという願い・・・、つまり望まれず生まれてきた、社会から見捨てられた人であっても最後の瞬間には「自分は誰かに愛されたのだ」という確かな実感を得てほしいという考えがあったのです。

つまり彼女は、「効率」ではなく「愛」を活動の原点としていたのでした。

あれ?

あれあれ?? 


この男性とマザー・テレサのやり取り、新約聖書にもあったぞ・・・。


効率のユダ、愛のイエス

ヨハネによる福音書第12章にはこうあります。
過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。

マリヤがこのような行為を行ったのは、イエスへの敬愛があったからにほかなりません。ところがユダの言葉には、マザー・テレサに質問した男性と同じく(この方は経済学やオペレーションズ・リサーチに詳しかったのでしょうか)、マリヤの気持ちを否定するものでした。

「そんなことをしても大した意味はない。もっと効率のいい使い方があったはずだ。貧しい人たちに施せば、彼らはしばらく食いつなぐことができただろう。香油で足を洗ったからといって、イエスの何かが変わるわけではない。お金の無駄だ」とでも言いたかったのでしょう。イエスたち一行の会計を任されていただけに、ユダはいかに限りある資源を効率よく分配していくかに敏感な人物だったようです。

イエスの弟子の一人として付き従っていたユダには、大衆というものがいかに自分の言うことをコロコロ変えるか、彼らを信じることがいかに馬鹿らしいか、骨身にしみて分かっていたことでしょう。(2021年東京オリンピック前の「中止すべきだ」という世論から、終了後の「やってよかった」への類例が無いほどの短期間での手のひら返しなど、これだけでも私は「もう他人と関わりたくない」という思いを強くしました。)

「師よ、人間なんて所詮自分にとってのメリットしか頭にないのです。消費税が下がったり、年金がいっぱいもらえたり、給料が上がって残業もしなくてよくなることしか考えていないんです。日本の次世代がどんなに貧しくなるか、眼中にないんです。誰かに『寄り添う』、『絆』だなんて、口先だけです」、今風に言えばユダが日々心のなかで思っていたのはこんなところでしょう。

イエスの考えはユダの立場とは異なり、行き場のない人、見捨てられた人、一人ひとりのためにともに苦しみ、感情を分かち合うことでした。
このことをマザー・テレサも分かっていたはずです。だから、彼女は男性の質問に対して毅然として「私はこれからも与え続けます」と回答しました。

私はここに、「効率」か「愛」か、つまり「算術」か「心」かという永遠の問いを見るのです。2000年前から続いてきたこのやり取り、もしかすると水掛け論なのかもしれませんが、「歴史は繰り返す」と言いますからたぶん次の2000年後も続いていくことでしょう・・・。