本を一度読むと、二度と読まないことって結構ありがちです。

とくに年間数十~100冊を超えて本を読む人は生活サイクルに読書というものが組み込まれており、もはや人生の一部となっているでしょう。こういう人は普段から本屋を訪れたり、図書館に足繁く通ったり、アマゾンを空き時間にポチポチしたりしているはずです。

「次に何を読むか」というのがはっきりと決まっていて、「その次は何を」までもイメージできている人は本当に次から次へと本を読み進めます。インプットに見合ったアウトプットができているか、あるいはそれで自分の暮らしにポジティブな影響があるかどうかは別として(だって、この言い方って実用書しか読まない人がいかにも言いそうでしょう?)、とにかく本を読むことが好きだからこうなるのです。

そうなってくると家の中が本だらけ、机の上にも侵食し始めてとても食事ができるような状態じゃなくなるほど・・・、な人もいるでしょう。

ただこういう場合、一度読んだ本は二度と読まないことだって多いでしょう。次、次、次、と読めば読むほど、新しい本を追いかけることが一種の目標になり、既知の本を改めて読むことをある意味「損」だとも感じられるからです(私もその一人)。

ただ個人的な経験から言えば、やはり時間を数年~20年ほど空けて「二度目、三度目」に読むと違った味わいが得られるというのもまた真実でした。

二度目に愕然となった本

例えば夏目漱石の『こころ』。説明は不要な小説ですね。高校のとき、そして大学のときに読み、大学を卒業して10年後に読み、さらにその7年後に改めて読み返すと、いろいろな疑問点が湧いてきて、また数年後に読み返そうという気になってくるのです。

その時のことは
に書きました。しかし、人生ブーメランというのは、まるで乃木坂46の橋本奈々未さんの座右の銘「やったことは返ってくる」を彷彿とさせます。

人生であと何度『こころ』を読めるか分かったものではないものの、次に『こころ』を読む時はまた違った感慨に浸れることでしょう。

さらには遠藤周作の『沈黙』。『海と毒薬』から『深い河』までいろいろな小説を読み、改めて『沈黙』を読み返すといかにこの作品が異常なまでの集中力をもって書き上げられたか嫌というほど分かりました。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

これは物語のほぼ終幕近くの文章です。何度も何度も書き直したに違いありません。声に出して読んでみると、推敲に推敲を重ねたことが分かります。
さらに『沈黙』のあとにもう一度最後の大作『深い河』を読むと、「キリスト教」を超え、人間の心を受け止めてくれる、汎宗教ともいえる世界を真剣に模索しようとしてインドのこと、何度もこれまで自分の小説で繰り返し描いてきたはずの自分の少年時代のエピソードを、これが最後と覚悟してもう一度改めて物語に織り込んでいくことの重みもまた受け止めずにはいられないのでした。

この他にも読み返すという表現は適切ではないにせよ、マルクス・アウレリウスの『自省録』などはその名言の数々を繰り返しチェックして、自分の体の中に溶け込ませる価値があるでしょう。

このように、「名作」と言われる本はやはり伊達に名作ではなく、その価値は自分の年輪とともに輝きを増すものです。
ビジネス書などは一度読んだらブックオフに売却するのもアリですが、「名作」たちは捨てずに本棚に並べておくだけでも「いつかまた巡り会う」可能性を確保しているだけでも十分価値はあるでしょう。