1996年に亡くなられた遠藤周作さん。作品が新たに発見されたり、NHKで『深い河』についての番組が放送されたりと今なお根強い人気を誇ります。

入院10回、手術8回を数えるほど病気がちだった遠藤周作さんは、晩年に自分の生涯の総決算となることを念頭に書きすすめた『深い河』を「棺のなかに入れてほしい」と語るほど思い入れを持っていたそうです。

他の作品と同様、『深い河』にはガストンや美津子など、既刊の小説の登場人物が現れます。
これはつまりそのキャラクターを通じて表現したいと願っていたパーソナリティやテーマをアップデートしたり、さらに深みを目指そうとしていたことを示唆します。

自分なりに『深い河』を読み進めつつ、これまで読んできた他の遠藤周作さんの作品との対応関係について記事化していきたいと思います。

大津の人物像における、過去作品からのこだま

彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい
人は彼を蔑み、見すてた
忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った
一瞬これはイエスのことを指しているのかと思いますが、旧約聖書の「イザヤ書」第53章からの引用でした。しかしイエスの生涯を予言している文章だと言っても間違いではないでしょう。

この文章を、「実感のない言葉」と切り捨てる美津子はクリスチャン学生、大津を誘惑します。
舞台になったのは上智大学のクルトゥルハイム聖堂。慶應義塾大学に入学するまえ、短い間でしたが遠藤周作もこの大学の学生でした。
(クルトゥルハイム聖堂では、結婚式を挙げることもできます。私の元同僚の結婚式もここでした。)

大津は美津子と関係をもち、そして棄てられてしまったことを深く悩みますが、後年リヨンで彼女とふたたび出会った時にこう述懐します。

神学生になったのは美津子のおかげであるとし、美津子から棄てられたからこそ人間から棄てられたイエスの苦しみが少しはわかったこと。「おいで、私は御前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない」という声が聞こえたこと。

この優しさに満ちた言葉には、『沈黙』の後半のある箇所のこだまが聞こえて来るように思えてなりません。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
見捨てられた痛み、寂しさを知っているからこそ、その苦しさを共に分かち合おうとする連帯の姿勢こそ、遠藤周作さんが打ち立てたイエス像ではなかったでしょうか。

大津はさらに、美津子から棄てられたことを「神の手品」だと定義します。
神は手品師のように何でも活用なさると。我々の弱さや罪も。そうなんです。手品師が箱にきたない雀を入れて、蓋をしめ、合図とともに蓋を開けるでしょう。箱のなかの雀は真っ白な鳩に変って、飛びたちます。
ここには、個人の意志や解釈を超えたところに神の意志があったと大津は断言します。
この「神の手品」は、『キリストの誕生』そして『侍』で描かれたイエスの死、エルサレムに入城すれば必ず捕縛され、見世物のように処刑されるだろうとわかってやった死の意味が遠景に見えるようではありませんか。

『侍』で日本を訪れ、幕府の役人に囚われて死を待つばかりとなったベラスコはこう述懐しています。
私はやがて待っている自分の死をもう敗北とは思わない。日本と戦い、日本に破れ・・・私はまたあのビロウドの椅子に腰掛けていた小肥りの老人をまぶたに甦らせる。あの老人は私たちに勝ったと思ったかもしれぬ。しかし彼には我々の主イエスが大祭司カヤパの政治の世界では破れ、十字架で殺されながら、その死によってすべてを逆転なされた意味が永久にわからなかっただろう。私を消滅させ灰にして海に投げ棄てれば、片付いたと考えただろう。だがそこからすべては始まるのだ。主イエスの十字架の死と共にすべてが開始され動きだしたように。そして私は日本という泥沼のなかにおかれる踏み石の一つになるだろう。やがて私という踏み石の上に立って、別の宣教師が次の踏み石となってくれるだろう。
美津子が大津を誘惑することも、イエスが殺されてしまうことも、それ自体は悪いことであるかのように見えても、そのことにより「一つの麦もし死なずば」の喩えどおり新たなものが生まれ始める。神の手品は、人間には理解し難いまま、人間の世界の至るところで顕現しているのではないか・・・、そう思えてなりません。

引き続き『深い河』について考え続けてゆきたいと思います。