見れば見るほど温かい気持ちになれる作品「映画 すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」。

あらすじは「部屋や空間の隅が大好きで、少しだけネガティブなすみっコたち。5年に1度訪れる青い大満月の夜、彼らが暮らす街に魔法使いの兄弟がやってくる。賑やかで楽しい夜を過ごすすみっコたちだったが、ある事件が発生する」というもの。

その事件の顛末が描かれた場面は、私たちが日々悩んだり、悲しんだりする姿をも肯定的にとらえているかのように感じられ、思わず唸らされるものがありました。

(以下、作品のネタバレにも触れていますのでご注意ください。)


夢を否定するとおかしなことになる。私たちの悩みだって、自分の一部

映画をご覧の方なら言うまでもなく、魔法使いの兄弟のうちいちばん小さいふぁいぶが地球に取り残されてしまいます。兄弟たちはたぴおかの青をふぁいぶだと間違えて連れて行ってしまったのでした。

ふぁいぶはさあ大変。まだ魔法がうまく使えないのに、どうしたらいいのか・・・。

そこは心配する必要がありませんでした。やさしいすみっコたちとともに暮らすことになったのです。

ふぁいぶはすみっコたちたちと話をしていくを聞くうちに「夢」というものの存在に気づきます。
ただ魔法使いたちには「夢」といっても腑に落ちません。魔法ですぐに必要なものを作りだすことができるわけですからそりゃそうですよね。

「夢」の話に耳を傾けるにつれ、ふぁいぶはそれを叶えてあげようとしますが魔法使いとしての実力が伴っていないので無理でした。
その一方で、夜に唱えてみた消失の魔法だけは成功してしまいます。すると・・・。

翌朝、すみっコたちのパーソナリティは一変していました。
ぺんぎんは自信たっぷり。しろくまは暑い暑いと扇風機の風を浴びています。とんかつは自分を生ゴミだと自虐に走り、ねこはスマートになりたいという目標を放棄。

ふぁいぶは自分の魔法に原因があると悟り、この魔法の影響を受けなかったすみっコたちとぺんぎんたちを元に戻すことにチャレンジするのでした。しょせん叶わぬ夢なら、いっそ無くしてしまえということになると、その人らしさが消滅してしまうのでした・・・。

お話はまだまだ続くのですが、この流れは「人間らしさ」とは何かを考えるうえで非常に示唆的だったと思います。

私自身、フルマラソン完走を目指して日々走っていますが、今の状態でトライしたところでよくて4時間30分、実際には5時間を超えてしまう記録になるでしょう。タイムとしてはかなり微妙です。だからといってこの努力をやめてしまおうというつもりにはなりません。
ヴァイオリンも弾いていますが、バッハの「シャコンヌ」というヴァイオリン音楽の最高峰(といっても、プロを目指す人なら高校生~大学生位で一応は楽譜通り弾けていないとこの先厳しい)に到達するのはこの調子なら10年いや15年はかかるでしょう。しかし難しいことを理由に投げ出すつもりもさらさらありません。

つまるところ、私が日々努力を積み重ねている、いわゆる「夢」、そしてそこに向かってジタバタしている行為そのものが、私の人格の一部を形成しているのでした。この私が追求しているフルマラソンなりヴァイオリンなりは、例えばあぶらっぽいから食べ残されてしまった、だからいつか誰かに食べてもらいたいという(人間から見れば突拍子もない)願いをもつ「とんかつ」と同じく、他の人とは安易に比較できない「固有のもの」であり、この「夢」そしてそれが達成できないという「悩み」こそが「その人らしさ」を形成しているのでしょう。

こうした「その人らしさ」は、テレビや書籍から得た情報のように外から加えられたものではなく、一人ひとりの心の中に自然に産み落とされたものこそがその人の固有の財産であり、永遠に誰かに奪われることはないのです。「人間の意識をつくるものは苦悩である」とゲーテが言っているのは、まさにこの文脈において理解されるべきものでしょう。

果たして、すみっコたちそれぞれの「夢」が実現する日が訪れるかどうかは、わかりません。
それは私やあなたが思い描く未来が本当に現実化するのかを誰も知らないのと同じです。
しかし「人生の栄光は、倒れないことにあるのではなく、倒れるたびに起き上がることにある」(ネルソン・マンデラ)のです。

すみっコぐらしの、ちょっと自信なさげな姿に力をもらう私たちは、物語の世界に慰められ、また力強い一歩を踏み出すことができるでしょう・・・、少なくともそう願わずにはいられません。