夏目漱石が残したいくつかの小説のなかではかなりマイナーな作品である『坑夫』は、漱石の家に押しかけてきたとある青年の告白を下地にしたものです。

良家の「お坊ちゃん」でありながら男女関係で問題を起こして家出してしまった主人公。誘われるまま銅山で坑夫の仕事をすることになりました。
新聞連載小説でありながら、第一章とか第二章とかいう区切りがないのでちょっと読みづらいのはともかくとして、『三四郎』とか『それから』などとは明らかに雰囲気が異なっており、これはこれで漱石の作家としての一里塚であることは間違いないでしょう。

人間観察眼もまた冴え渡っており、こんな名言が何の前触れもなく転がっています。

どうも人間の了見程出たり引っ込んだりするものはない。有るんだなと安心していると、既にない。ないから大丈夫と思ってると、いや有る。有る様で、ない様でその正体はどこまで行っても捕まらない。
これは、主人公に対して「坑夫にならないか」と声を駆けてきた斡旋人が、別の男(赤毛布というあだ名)を途中で新たにスカウト(?)し、ほいほいとこの男も銅山へ向かうことになった場面で出てきます。
赤毛布のあまりの単純ぶりに辟易する主人公。しかししばらく肩をならべて歩いていると、そんないやな気持がいつの間にか消えていた・・・、そこでこの名言につながります。

たしかに人の心というのはコロコロ変わるもの。
それはインターネットというものが私たちの暮らしに溶け込んで、「炎上」をたびたび目にするたびに嫌というほど思い知らされました。
「羊水腐る」発言、フジテレビデモ、バイトテロ、タピオカ屋恫喝、上級国民、五輪エンブレム、「テラスハウス」出演者自殺、自粛警察・・・。

その瞬間風速は猛烈でも、しばらく経ってから後ろを振り返ると、あの騒ぎは一体何だったのか? と思えるようなものばかり。Twitterでも、ヤフーコメントでも、イナゴが一斉に田んぼに押し寄せて稲を食い荒らし、一斉に逃げていく光景を連想させます。

そのイナゴは、また別の田んぼを見つけて食い荒らし、また別の田んぼへ・・・。
彼らもまたその時は自分が正義を代表して苦言を呈していると思っているのであり、匿名の影に隠れて炎上というエンターテイメントに加わる彼らも職場ではえてして真面目な係長だったりするのでしょう。公的な場では一角の人物として認められ、立派なことを言っていても、人の心を煽り立てるようなニュースを目にするとたちまちその了見もどこかへ飛んでいってしまう。

そのような「イナゴ」という蔑称を用いることにいささかのためらいも感じない人びとが常に一定数いることに、私は人間の社会のくだらなさをひしひしと感じ、ますます人間ぎらいを深めてゆくのでした・・・。

主人公、やっぱりお坊ちゃんだった

『坑夫』を読んでみて、やはり主人公は世間知らずのお坊ちゃんだとしか思えません。
なぜって、19歳で男女関係で問題を起こすのはまあ「あるある」だとして、そこから家を飛び出して、死ぬことを目指して放浪するという点が、どうにもこうにも人間関係のトラブルに対する免疫のなさを示しています。

そうかと思えば「御前さん、働く了簡はないかね」「大変儲かるんだが、やってみる気はあるかい。儲かることは受合なんだ」という明らかに怪しい勧誘に引っかかり、ホイホイと鉱山の坑夫になるなんて、お人好しもいいところでしょう。今ならマルチ商法に引っかかるパターンでしょうか。

「投資や自己啓発のセミナーに参加してみないか」、「すごい人に会えるんだけど行かないか」、「いい話がある」。まさかそういう話に引っかかる人はいないと思います。この手の勧誘に引っかかると、人生ゲームのようにサイコロを回してお金を貯めながら円卓のコースをぐるぐる回り、一定の金額になれば「会社で働くというラットレース」から抜け出して、経営者・投資家に上れるという投資やキャッシュフローに関するボードゲームをやらされたり、『金持ち父さん貧乏父さん』というロバート・キヨサキの本を読まされたり・・・、というわけでいつの間にかマルチ商法の思想に少しずつ染まってゆく羽目になります。

「自分は関係ないさ」と思っていたら大間違い。じつは合コン、街コン、婚活アプリにもこの手の人が普通に紛れ込んでいます・・・。(私も出会ったことがあります。)
一度こういう人に出くわすと、もうバッチリ見破れるようになるのですが、『坑夫』の主人公はどうやらいまいち「人を疑う」ということを知らなかったようなのです。それでいて「どうも人間の了見程出たり引っ込んだりするものはない」なんていう洞察力があるわけですから、人間というのは本当に訳が分かりませんね・・・。


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