NHKのドキュメンタリー『映像の世紀プレミアム』の第13集「戦場の黙示録」では、第二次世界大戦および朝鮮戦争における様々な決定的瞬間をカメラがとらえていました。

このなかで印象深かったのがB29による本土爆撃を指示したカーチス・ルメイ。
このルメイを太平洋戦争末期の新聞はどのように報じていたのかを調べてみたところ、完全な個人攻撃に終始しており、戦争がいかに人を異常な状態に導くか、そしてそれを当たり前のように受け止めてしまうか考えさせられるものがありました。

カーチス・ルメイによる本土爆撃

『映像の世紀プレミアム』によると、もともとB29は日本本土の軍需工場をピンポイント爆撃すべく、サイパンに配備されていました。
ところが操縦士の練度が低く、高射砲や迎撃戦闘機が対応できないような高度から爆弾を投下しても、ほとんどが命中せず、思ったような成果が上がっていませんでした。

これでは何のために巨額を投じて開発し、前線に配備したのか!? B29が役に立つこと証明してみせろ! そういう圧力は日に日に高まり、本土爆撃の責任者は更迭されてしまいます。次に指揮の重責を担ったのがカーチス・ルメイ。彼は焼夷弾の雨を市街地に降らせればいいことに気づきます。

たしかに市街地なら100メートルくらい狙いが外れたからといって結局は同じこと。
ガソリンを混ぜて作った焼夷弾=ナパーム弾なら木造家屋はひとたまりもありません。
こうして東京を初めとして終戦まで全国各地の都市が焼き払われることとなったのです。

「皆殺しルメイ」と呼ばれた彼を、当時の新聞はどのように報じていたのでしょうか?

個人攻撃にみちた当時の新聞

私は図書館などでアクセス可能な朝日新聞社のデータベース「聞蔵Ⅱ」から、以下の記事を見つけました。

記事名:元凶ルメー、思ひ知れ 暴爆専門、下劣な敵将

やりをつたな、カーチス・ルメー。お前が東京や大阪、名古屋、神戸などの爆撃の戦果偵察写真をひねくり廻しながら「東京には、もう重要な軍事目標はなくなつた」とか「東京はもはや復活出来ないだらう・・・」などと勝手な気炎を上げて、悦に入ってゐることをわれわれはきいてゐる、ハンブルクの絨毯爆撃に味をしため(注:しめたの誤りか)お前が今年一月末、マリアナに居座つてこのかたのB29による都市爆撃の惨禍をわれわれは隠さうとはせぬ、文化の破壊とか無辜の女子供の虐殺とか――といふ言葉が、空中サーカスの曲芸師上りの下劣なお前には一向にこたへぬことは、とつくの昔からこちらも承知してゐるましてや嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりをして狂喜してゐるに相違ないし一個の将領遇するにふさはしい品性を持ち合わさぬお前には、われわれもそれに相応する復讐を考へてゐる

お前の猪首に荒縄をかけて、焼跡を引摺り廻す、お前は部下たちの仕事の跡をそれで堪能できるだらう、これこそお前にもつともふさはしい最期に違ひない、と考へているのだ(中略)

爆撃によつて残された人々の無念を晴らすためにも、われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい

(朝日新聞 昭和20年6月7日朝刊より)
負け犬の遠吠えとも思える記事ですが、記者は心底ルメイを憎んでこの文章を書いたのか、それとも会社の方針で仕方なく書いたのか、世論に迎合したのか、書いているうちにだんだんそういう気分になったのか・・・、それを知ることは不可能です。ただ戦争というものが、「日常的に用いてはならない言葉」を盛り込みながら個人攻撃でしかない文章を全国紙に掲載させるほどの異常状態をもたらすということはうかがわれます。

さてこの2ヶ月後に日本は敗戦を迎えます。軍国主義を訴えていた新聞はころっと平和主義に転向し、GHQの指示であったのでしょうが「日本軍はこんな蛮行をしていた」のような記事を掲載し始めます。
これも記者は会社の方針で仕方なく書いたのか、世論に迎合したのか、書いているうちに今度は平和に染まっていったのか、これも今となっては分かりません。

私はこの記事をもって、朝日新聞社や記者を批判したいわけではありません。
ただマスコミというものはそのときの社会情勢によって言うことがガラリと変わってしまうものだということは頭の片隅に置いておくべきでしょう。

冷戦時代とその後でソ連や東ドイツ、北朝鮮をめぐる報道はどう変わったのか。
湾岸戦争やイラク戦争の前後でアメリカやイラクを報じる姿勢はどう変化したか。
2021年現在についていえば、新型コロナウイルス感染症について、被害の実態と釣り合わない過剰な恐怖を煽るような言葉がなかったか(私は「あった」と判断しています)。

こうしたことを考えるにあたり、20世紀最大の悲劇である第二次世界大戦は様々な教訓を今なお私たちに伝えているように思われます。


注:カーチス・ルメイは戦後、航空自衛隊の育成に功績ありとして勲一等旭日大綬章を授与されました。ウィキペディアには「勲一等の授与は天皇が直接手渡す「親授」が通例であるが、昭和天皇はこれを行わなかった」とあります。