真言宗総本山教王護国寺(東寺)で毎週日曜に法話会を続けている山田忍良(やまだ にんりょう)さん。
法話で配布しているプリントが300号を超えたことをきっかけに出版されたのが『人間は何度でも立ち上がる』です。
普段この手の本は読むことがあまりないのですが、珠玉のような言葉の数々に心が洗われる思いがしました。残念ながら東寺またはアマゾンでしか取り扱いがないらしいのがまさに玉に瑕ではあるものの、悩みや迷いを抱えている人にとっての一つの道しるべとなることは間違いない良著です。
『人間は何度でも立ち上がる』を初めて目にしたのは、京都・東寺を観光で訪れた際に物販コーナーでなんとなく立ち読みしたときでした。その時はさすがに「荷物になるから」という理由で購入をためらい、そのまま寺を後にしてしまいました。
が、たまたま開いたページに掲載されていた「私たちは、言葉で迷い、言葉で悟ります」というセンテンスがずっと心のなかに残り、後日アマゾンで取り扱いがあることを知って発注しました。
なぜこんなちょっとした一言が気になっていたのか。
それは、過去記事
に書いたのですが、女性同僚がある事情によりたびたび通院を続けており、重要な仕事と通院がとうとう重なってしまった時に「大丈夫でしょうか」と尋ねられ、「スケジュールは余裕を持って組んでるから大丈夫」とヘラヘラしながら答えたことがありました。
その同僚はその後まもなく夫の転勤の都合で退職をしました。
そして2週間ほど経過してから、「お礼」というタイトルのメールに「あのときのあなたの言葉に救われた気分になった」と書かれていたことに軽く衝撃を受けました。
ちょっとした一言が相手を勇気づけたり、逆に深く傷つけることがあるのだという実感がごく最近にあったからこそ、「私たちは、言葉で迷い、言葉で悟ります」をまさに真実だと受け止めることができたのです。
『人間は何度でも立ち上がる』に見る珠玉の言葉
素晴らしい言葉がぎっしりと詰まっているこの本。
いくつか抜き書きしますと、
本当に私たちは何がほしいんですか? 「幸せ」がほしいんですか? それじゃ「幸せ」ってなんですか? お金ですか、寿命ですか? わからないでしょう。そうじゃないんです。
ここからさらに言葉を続けて、人は自分の人生をかけても構わないと思えるものを見つけることをこそ幸福だとしています。これには軽い衝撃を受けました。
この主張は、私が折に触れてひもとく遠藤周作さんの著作に一貫したテーマでもある、「人は同伴者を常に心のどこかで探し続けている」という訴えに通じるものがあります。
すべて人は、たとえ私のように「友だちいない」をブログの看板に掲げるような者であっても、その「何か」を求めてやまないのでしょう。2020年~2021年の新型コロナウイルス感染症により、人と会うことに、まさに21世紀のベルリンの壁といってもいい障壁が張り巡らされた結果、そのことを図らずも痛感した方も多かったはずです。
仏の座す蓮華は泥の中に咲きます。泥を逃げてはなりません。仏は泥に咲くのです。
なぜ蓮の花が仏教で尊いとされているのか。その理由がこれ。泥水をすすりながら自ら浄化し、独自の美しい花を咲かせる姿に、民衆のなかに分け入り、一人ひとりに救いの道を説く僧侶が重なります。
きれいなもの、好きなもののために身を賭すのはたやすいことでしょう。そうではなく、自分の貴重な命を汚いもの、けがらわしいもののたえに費やし、卑しいものから目をそらすのではなく、そこへ飛び込むことにより咲く花もあるということでしょうか。
人間は何度でも立ち上がる
この本のタイトルにもなっている言葉、これぞ「人間の原点」とも言いうるもの。
かつてネルソン・マンデラは次のようにヒラリー・クリントンに言葉をかけたそうです。
「私たちの期待が、私たちの心からの祈りや夢が実現されなかったとしたら」「そのときは心に留めておかなくてはなりません。人生の栄光は、倒れないことにあるのではなく、倒れるたびに起き上がることにあるものだということを」(『リビング・ヒストリー』より)
苦しみや悩みを受け止めるたびに、倒れてもまた立ち上がることは容易なことではありません。
しかし、苦しみや悩みというものは知識や教養のように外部から付け加えられたものではなく、その人のオリジナルな経験であり、これを通じて獲得したものは終生を通じていつまでもその人のものであって、その人らしさを作り出す源となります。その意味で、「人間の意識をつくるものは苦悩である」、「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」と言ったゲーテは正しいでしょう。
「人間は何度でも立ち上がる」。この言葉を聞いて、私はどうしてもベートーヴェンのことを思い出さずにはいられませんでした。当代きってのピアニストとしてデビューしつつも難聴が悪化し、演奏家としてのキャリアが脅かされてしまいます。しかしそのことを知られてしまったら、本当に自分は終わりだ・・・。
そう考えた彼は人間ぎらいを装い、自然のなかに身を寄せるようになります。
やがて彼は自殺を思い、「ハイリゲンシュタットの遺書」とよばれるメモを残します。
私の傍らに座っている人が遠くから聞こえてくる羊飼いの笛を聞くことができるのに私にはなにも聞こえないという場合、それがどんなに私にとって屈辱であったであろうか。
そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。
そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。(http://www.kurumeshiminorchestra.jp/beethoven_heiligenstaedt.htmlより)
しかし彼は芸術への思いから踏みとどまり、後年ウィーン郊外のハイリゲンシュタットをふたたび訪れた彼は『交響曲第6番
田園』を完成させます。この曲は「嵐」を経て「牧人の歌、嵐のあとの喜びと感謝」で結ばれており、単なる自然描写にとどまらない、苦悩(心の中の嵐)を経て生きる歓びに到達する心理をも音楽で表現しています(ほぼ同時並行で『交響曲第5番
運命』が作曲されており、苦悩から歓喜へというパターンがこちらにも見られます)。
このように見ていくと、仏教というのはまさに様々に悩み、傷つく私たち人間のための教えだというほかありません。
日新公いろはうたに曰く、「いにしえの道を聞きても唱へても わが行ひにせずばかひなし」。
様々な素晴らしい言葉を胸に、できれば日々の生活のなかで少しでも実践していきたいものです。
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