Cuvie先生のバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』の第17巻。

英国ロイヤル・バレエ・スクールに留学中の奏は英国ロイヤル・バレエ団の年末公演『くるみ割り人形』に端役として出演することに。
他方でルームメイトのキーラは振付コンクールへエントリー。
なんと彼女が出してきた曲は北欧メタル。

それをメタルというのか(たぶん違うでしょう)、私はイングヴェイ・マルムスティーンくらいしか思い浮かびませんが、あのような曲にダンスをつけるのは並大抵のことではありません。

テーマは「異物の排除」と、それを受け入れて集団がより強靭になっていくというもの。

踊りという表現は言語を介しないだけに、「許せない」「愛している」といった口にしてしまえばたった一言で終わることを肉体で伝えなければなりません。
キーラが掲げるテーマをどうやって体でお客さんに理解させるのか、これは難題としか言いようがないですね。彼女はまだ学生であっても内面は「小さな芸術家」です。

芸術とは何か?

キーラが級友の協力を得ながら彼女なりにメッセージを伝えようとしている姿を見ていると、私はかつて桐朋学園大学で教鞭をとった齋藤秀雄の講義を思い出さずにはいられませんでした。

齋藤秀雄は若き日の小澤征爾さんの師匠であり、他にも数多くの指揮者を育てた戦後有数の音楽指導者でした。晩年の彼の講義はかつての教え子たちにより編纂され、公刊されています。
これによると、芸術とは、
いろいろ定義が下せるかも知れないけれど、こういう、僕の作った定義というものがあるんです。それは「一つの素材でもって全然違うものを作り上げる」ということ。
(中略)
そうすると音楽会へ言って、音を聴いた時にその音を意識できるんだったら、それはまだ芸術品じゃない。だからヴァイオリンを弾いてヴァイオリンの音だけを聴かせると思っていれば、その人は芸術家じゃなくってヴァイオリン弾きだということになる。私はヴァイオリンを弾くけれど、ヴァイオリンという道具を使って音楽を、違うものを聴かせよう、聴衆に何か印象を与えようと思った時に、そこに芸術品が生まれてくるのではないかと思うんです。
これは難しいですね。
現実にはヴァイオリンを持ったらヴァイオリンに、ピアノを弾いたらピアノに振り回され、その楽器から音を出すことに集中するあまり、自分では上手に弾けたつもりでも、実際には肝心の「演奏を通じて伝えたいメッセージ」がおろそかになっているわけですから。

17巻の最後には各国の古典文学の朗読を組み込むというアイデアまで飛び出し、「そんなことをやって破綻しないのか?」と、私は一抹の不安を覚えました。

『枕草子』冒頭はこのように始まります。

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

シェイクスピアの四大悲劇のうちのひとつ『マクベス』の有名な独白シーンは次の通り。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
(明日また明日、そして明日と
時は一日一日歩みを進め
やがて最後の瞬間がやってくる。
過ぎ去った日々は愚かな人間に
死への道を照らすのだ。さあ明かりを消せ!
人生など影絵に過ぎぬ。
役者どもは舞台の上で動き回るが
やがて消え去ってしまう。
阿呆のたわごとと同じだ。
響きと怒りに満ちてはいるが
何も意味もありはしない。)

こんなのが並列するかもと思うと・・・、どんな世界観やねん!

いずれにせよキーラは英国ロイヤル・バレエ・スクールという場で一流の指導を受け、芸術家への道を歩み出そうとしています。その道は平坦ではないでしょう。しかし表現を志す者は必ず通らなければならない茨の道でもあります。続く18巻、彼女はどのようにこの創作を仕上げてくるのか、引き続き注目していきます。