陰キャ。陰気なキャラクターだから陰キャ。

なんだか特定の性格の人を見下したような呼び名で感心しません。
陰気な性格は悪いことだ、そんな性格はスクールカースト下位であるべきだ、人は明るくあるべきだ、そういう主張が透けて見えるようです。
裏を返せば、友だちが多くていつも誰かと一緒にいることが良いことだとでも言いたげです。

このブログは「友だちいない研究所」。運営している自分自身も友だちがいません。
中学、高校でも友だちができず、さらに同じ興味の人が学部学科単位で固まりがちな大学ですら友だちができませんでした。社会人になってもべつに連絡を取りたい人はいないです。LINEもやってません。

そんなリアルに陰キャな自分だからこそ、陰キャが調子に乗る理由がなんとなくわかるのです。

陰キャが調子に乗るのはどうして?

陰キャは、基本的に一人ぼっちです。一体どんなふうに一人ぼっちなのかは千差万別ですが、私の場合はヴァイオリンの練習とジョギングで忙しく、自分の時間を捻出するために他人のために時間を使う気になれないのです。

それ以外でも「好きなゲームをしたい」「アニメを集中的に見たい」など、自分が好きな何かに取り組みたいというのが主な理由ではないでしょうか。正直、人生は一度きりだし、過ぎ去った時間は1億円払ってももとに戻すことができないので、自分がやりたいことに時間を使うのがベストだと思いますが、それで陰キャと呼ばれるのなら、世の中にはそれだけやりたいことがない人だらけ(そういう人たちの価値観を中心に回っている)なんですね。

そういう一人ぼっちの人であっても、結局私たちは「人間」なのです。

そもそも私たち人間は自分に寄り添ってくれる「誰か」を無意識のうちに求めているものであり、と同時に自らも身を差し出せるもの、差し出して構わないと思えるもの、そういう「何か」を見つけ出したいという願いを誰もが心の中に持っています。それを見つけた瞬間をこそ「幸福」と言います。

逆もまたしかり。
遠藤周作さんはある著作において、次のように述べています。

人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。

クリスチャンであった遠藤周作さんは、「そのような存在」をイエス・キリストだとしており、人々の切なる願いに生前もその死後も応えつづけてきたのだとし、その著作を結んでいます。

陰キャが調子に乗る理由はこのあたりにありそうです。
普段いつも一人ぼっちな彼。友だちがいなくて、いつもクラスの片隅にいる彼。
そんな彼のことを、肯定してくれる言葉をかけてくれる者がいた。同じ考えの人がいると気づき、自分はけっして孤独ではないのだと知った。

そんなとき彼の心は肯定感に満ちていることでしょう。

一見して調子に乗っているように見えても心の深いところではそうした人間的な喜びに満ちているはずです。

陰キャ陽キャと言う方へ。世の中にはいろいろな人がいて、それぞれの感性をもち、独立した人格を備えているのです。彼らの生き方は当然に千差万別であり、それぞれが尊重されなければなりません。
社会はそのようにして成り立っていることを、どうかご理解ください。