2020年6月に唐突に芸能界を引退することが発表された渡辺麻友さん。

しかしアイドルとして、女優として私たちに残してくれた多くの思い出は今なお色あせることなく、多くのファンにとってその時代を共有した一つの証であり続けています。

さて本日、私は次のような記事を目にしました。


この記事において、乃木坂46の寺田蘭世さんはこのように渡辺麻友さんに言及しています。
もともとAKB48が好きで、特に引退した渡辺麻友さんの大ファンだった。「自分自身が麻友さんの写真集を(同じものを)5冊買っていたくらいですから、今回秋元(康)先生から写真集のタイトルや帯のコメントをいただいたってことが、不思議でたまらないです」と感慨を込めた。「当時握手会に一緒に並んでいた地元の友達にもこの写真集を見せて、うれしい気持ちをかみしめたいです。麻友さんには本当に感謝しています」と伝えた。
ご存知のとおり「ファンは推しに似る」という言葉があります。

渡辺麻友さんが好きな方は、ひとつひとつの振る舞い、さらには内面までが影響を受けて彼女に似てきてしまうということでしょう。

じつはこれはアイドル業界に限った話ではないようです。
いまからおよそ100年以上前、指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962)は作曲家でもあり、指揮者でもあったグスタフ・マーラーに傾倒するあまり、弟子となり、しまいにはせかせかした歩き方やつめをかむ癖まで真似をするようになったと伝えられています。

さて寺田蘭世さんは渡辺麻友さん引退直後にも「偽りのない人」とのコメントを発表しており、彼女をはじめとして、渡辺麻友さんに言及するアイドルは口をそろえて「姿勢」の尊さを称賛しているのは興味深いと思います。
「秋霜烈日」、「志操堅固」ともいえる彼女が残した「姿勢」は「アイドルとはいかにあるべきか」という問いへの一つの答えであり、この強烈なメッセージはこれからもアイドルの鑑として語り伝えられてゆくことでしょう。


推しに似る意味とは

「ファンは推しに似る」理由について、私はたびたび考えることがありました。
そもそもなぜ一回あたりせいぜい数秒程度の握手のために幕張メッセなりパシフィコ横浜なりへ出かけて行ったのか。往復にかかる時間のほうが明らかに長いのに、なぜそこまでして会いに行こうとしたのか。

新型コロナウイルス感染症という予想しない出来事により握手会は開催されなくなり、2019年までのの方法による握手会の再開のめどは立っていません。
そもそも「緊急事態宣言」「ステイホーム」という感染防止対策は見方を変えれば「人と会うな」ということであり、私のようにブログタイトルで「友だちがいない」ことを公言している者であっても、そうしたことが政策として採用されている状況に対して「それで先の世代から次世代へと伝えられるべき人間の暮らしの姿は持続可能か?」「私たちの心のなかに自然に備わっているはずの人間らしさを軽んじているのではないか?」という疑問を持たざるを得ませんでした。

そのような経験を経て、改めて推しに似る意味を考えると、そもそも私たち人間は自分に寄り添ってくれる「誰か」を無意識のうちに求めているものであり、と同時に自らも身を差し出せるもの、差し出して構わないと思えるもの、そういう「何か」を見つけ出したいという願いを誰もが心の中に持っているのであり、それを見つけた瞬間をこそ「幸福」と言いうるのではないか・・・。
そうした心の中の最も深いところにおける作用が、表面的には「推しに似る」ように見えているのではないか・・・。このような思いにとらわれるようになりました。

前述のブルーノ・ワルターも「推し」であったマーラーの音楽を通じて自らの音楽表現を確立し、彼が残した数々のレコードのうち、とくにマーラーの交響曲を収録したものは今なお名演奏として語り継がれ、廃盤とならずにカタログに残り続けています。

見つけ出すべき「何か」は人によってアイドルであるかもしれませんし、夫(妻)であるかもしれませんし、科学的真理の探求であるかもしれません。私やあなたにとってのそれが何であるかは誰も教えてくれません。自ら見つけるのが人生なのでしょう。

とりとめもありませんが、久しぶりにネット上で渡辺麻友さんの名前を目にし、以上のような雑感を書きとめさせていただきます。