陰キャって素晴らしい! まず友だちがいないのでじっくりと本を読んだり、ものを考えたりする時間が確保できる。結果、人とは違うオリジナリティある人物になれる。

陽キャはいつも人と一緒にいるために、他者に対して忖度をしたり、とんがった発言ができなくなったりと、いわゆる「平均値」に収斂してゆく運命にあるので時間とともに輝きを失います。

だから、長期的に見れば陰キャは陽キャに勝るというのが私の持論です。

そんな陰キャのための音楽はこれだ! グスタフ・マーラー『大地の歌』。



タイトルがなんとなく中二病感丸出しですが、原題はDas Lied von der Erdeといいます。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したユダヤ系作曲家、グスタフ・マーラーの代表作の一つ。

彼は「死」を病的なまでに恐れ、ベートーヴェンやブルックナーといった作曲家が交響曲を第9番まで作曲して他界したことにジンクスを感じており、交響曲第8番のあと9つ目の交響曲に着手します。そこにはわざと番号をつけずに『大地の歌』と命名しました。

そのあとで「9」を飛ばして第10番の交響曲を完成させますが、マーラーの死後皮肉にも『第10番』と呼ばれてほしかったはずの交響曲が『第9番』として扱われています。彼は運命に逆らおうとして、敗北を喫したわけです。

この『大地の歌』は「中国の笛」と題した李白や孟浩然たちの漢詩のドイツ語訳をテキストとしており、第1楽章から第6楽章までいずれも「生命の儚さ」をテーマにしています。当然、ドイツ語歌唱です。

第1楽章「大地の哀愁を歌う酒の歌」
酒の力で死の恐怖を遠ざけようとする試みです。
Dunkel ist das Leben, ist der Tod.(生は暗く、死もまた暗し。)この言葉が数回に渡って繰り返されます。

「穹窿はとことはに蒼く、しかも大地は揺るぎなくながらえ 春を迎えて百花繚乱。
しかるに人間なる君よ、君はいかほどの生を永らえるものぞ。
百歳とはゆるされぬ身で、うつつに耽るとも
すべてはこの地上の儚きたわごとに興ずるのみ!」

ドイツ語でこんなことを歌い上げるなんて、陰キャにぴったり!

第2楽章「秋に独りいて淋しきもの」

「淋しき孤独にとざされ割れはひとしお涙にかきくれむ。
我が胸のうちには秋あまりにも永らえつづければなり。」

憂いに満ちた秋の雰囲気に死を願うというもの。暗いですね・・・。

第3楽章「青春について」
学生たちがあずまやで議論したり談笑したりしています。おや、友だちがいるじゃないか。
そう思うのは早い。

「ちいさき池は静かに広がり
水面にあたりのものなべて
その妙なる姿を映しだしぬ。」

水面に学生たちの姿が映し出されているということは、つまり青春とか若さとか、学生時代の人間関係とかいうものはうつろいやすいものだという無常観の表現でもあります。(同級生が突然死んでしまった、という経験がある方はなんとなくわかっていただけると思います。)

第4楽章「美しさについて」
駿馬に跨って駆ける青年に恋する少女のまなざしが表現されます。
「見開きしその瞳にひらめく火花に 熱きそのまなざしの
暗き影のうちに 心のときめく響き いまなお尾を引き
悲しむがごとく 訴えるがごとく揺れやまざればなり。」
全編を通して一番明るい曲になっていますが、じつはそこが落とし穴という鬱な仕掛け!
第3楽章がそうであったように、少女の恋心を美しく表現しているように見せかけて、若いうちの情熱なんて人生数十年というスケールで見るとさっと通り過ぎてゆくような儚いものだ、そうマーラーは言っているように思えてなりません。

第5楽章「春にありて酔えるもの」

「処生ただ一場の太夢のごとくにあらば
なんすれぞ その生の労なり煩ならん。
ゆえに 我は飲む 佳き日をひねもす
ついには飲むあたわざる身となるまで。」

つまりどうせ自分は死んでしまうのだから、だったら努力なんかするより酒でも飲んで寝ようという内容の歌。まあ、死んでしまうというのは真実ですが・・・。

第6楽章「告別」
これだけで30分ほどの演奏時間を必要とする『大地の歌』の核心となる部分です。

「友は馬よりおり
別れの盃をさしだしぬ。
待ちたる友は訊く、赴くは何処の土地か。
何ゆえにこの地に留まるを許されざるか。
答し友の
紗に覆われしごとくかすむ声、
この世にて運にいまだ恵まれざればなり!」

この部分に限った話ではないですが、テキストがそもそも文学であるだけに言葉が非常に美しい。しかし語られている内容というのが陰々滅々たるもので、「告別」に出てくる「我」は友に別れを告げて山中を放浪するさすらいの旅に出ます。おそらく、二人はこの先相まみえることはないでしょう。

「大地も春きたりなば
百花舞い緑萌えいづ。
何処に往くとも遥けき彼方は光り青めり。
永遠に・・・永遠に・・・」

永遠に(Ewig)という言葉を繰り返しながら、最後は「永遠の愛と生に酔う世界」に対する愛惜の念を残しながらも息絶えるように静かに終わります。

どうでしょうか。こんな作品、陽キャは耳を傾けようともしないでしょう。
しかし100年以上前に作曲された作品が今なお世界各地のオーケストラによって演奏されているという事実がこの交響曲の価値を証明しています。

言い換えれば、人類が残した文化資産にアクセスし、その価値を実感できるのは選ばれし者=陰キャだということになります。他にもマーラーはすぐれた作品を多く残していますが、いずれも陰キャな雰囲気にあふれており、聴けば聴くほど自分が根暗な性格に生まれてよかったと実感できるでしょう!

上記記事のなかに引用した日本語訳はブルーノ・ワルター(という指揮者)がニューヨーク・フィルハーモニックとともに1960年に録音したものに付属していた解説書に記載されていたもの(深田甫氏訳)です。現在廃盤になっているようですがアマゾンなら中古品が流通しているようです。