戦後日本文学のなかでもひときわ名高い、遠藤周作さんの代表作である『沈黙』をおよそ15年ぶりに読み返し、信仰と神の沈黙という深刻なテーマにもかかわらず昔と同じ、いやそれよりも深い感動を覚えました。

この作品から個人的に気になる名言を書き残しておくために、これまで2つの記事を作成しました。
最後はやはりこの場面を忘れるわけにはいかないでしょう。

幕府に捕縛されたロドリゴの前に、棄教したフェレイラが現れます。
かつてフェレイラを尊敬していたロドリゴは、彼がなぜイエスを裏切ったのかその理由を明かされました。

「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
夜通し苦悩するロドリゴのもとに届いていた鼾の音は、実は信徒たちが拷問に苦しむ声でした。ロドリゴが転ばぬ限り彼らは絶望的な痛みを受け続けることになるのでした。

フェレイラに諭されたロドリゴはついに・・・。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
自分は決してイエスを見棄てることはあるまいと固く決意して日本へ上陸したロドリゴもまたフェレイラと同じ道をたどることになりました。

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」。
旧約聖書の神と異なり、新約聖書のイエスは人間らしさに溢れています。大工の息子として生まれ、布教活動を始めて人びとの中に分け入って神の愛を伝えようとしています。その言葉のなんとあたたかみに満たされていたことか。

ご存じのとおりイエスは処刑されてしまいますが、死刑を命じた側は、この男を殺して始末すればそれで終わりだと思っていたでしょう。ローマ帝国に歯向かうものを誰もが目につく場所で見せしめに磔にしてしまえば、同じことをする者もしばらくは現れまい、そういう打算があったことでしょう。
しかし実際にはイエスが死んだことによりその意味に弟子たちが向き合うことになり、それがすべての始まりとなること、つまりは敗北したことによりじつは勝利を獲得していたこと、ひいては人間社会における価値観の革命が始まることに、当時イエス本人以外は誰も予想はしていなかったでしょう。これぞ「お前たちの痛さを分つために十字架を背負った」ことの真意かと思われます。

こうした人間味あるイエスの姿と言葉は遠藤周作さんなりのイエス像であり、『沈黙』が出版当時ローマ・カトリック教会から歓迎されなかったのも無理はありません。
遠藤周作さん自身も自らの意志で洗礼を受けたわけではなく、「着心地の悪い洋服」を一生身にまとい続けなければならないものにするためには、自分ごととしてイエス像を打ち立てる必要があった。その「答え」が『沈黙』であったように思われます。

引用文の最後には「鶏が遠くで鳴いた」とあるのは、言うまでもなく新約聖書へのひそかな言及です。
「マタイによる福音書」では、一番弟子ペテロが師匠のためになら死んでも構わないと宣言します。フェレイラやロドリゴのように熱心ですね。ところがイエスは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」。

事実、イエスが捕縛され、大祭司の官邸に連行されてしまうと、その様子を見ようとペテロが人混みをかき分けると、「お前もイエスの弟子だろう。見覚えがあるぞ」と群衆に指摘され、咄嗟に「いや、あんな人物は知らない」と否定してしまいます。「そんなはずはない。仲間のはずだ」「違う。関係ない!」そんなやりとりをしているうちに朝日が射し、鶏が鳴き声を立てるのでした・・・。

決して師匠を裏切るまいという固い決意も、自分も処刑されてしまうかもしれないという恐怖感に襲われると一気にしぼんでしまい、ペテロのような人物でさえも師匠を見棄ててしまうのでした。それゆえ、ロドリゴが踏絵を踏むこともイエスはわかっていたはずです。だから「踏むがいい」。

物語の末尾に、転び者となったロドリゴのもとへキチジローが訪れます。告悔を聴聞してほしいというのでした。自分のように弱いものは強くなれないのだと言うのです。

ロドリゴは心の中でイエスと語り合います。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

こうしてロドリゴは「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」と言い、「安心して行きなさい」と告悔の終わりに言う祈りを唱えます。

ポルトガルやローマの教会関係者たちはロドリゴを裏切り者だとみなすでしょうが、ロドリゴはこう悟ります。
あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

こうした「同伴者」としてのイエス像は、後に『イエスの生涯』『キリストの誕生』『死海のほとり』『侍』としてなおも遠藤周作さんの文学の主要テーマとして顔を出すことになります。

改めて『沈黙』を読み返し、テーマの深さと読者をひきつけて話さない文章表現の巧みさに感動し、時代を超えて読みつがれるべき不朽の名作であることを確信しました。

さて、次に『沈黙』を読む時、私はいくつになっているのでしょうか?

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