昭和41年刊行の戦後日本文学の代表作と言っても過言ではない遠藤周作さんの小説『沈黙』。
引き続き私が気になった名言を書き留めておきます。
今回はこちら。
罪は、普通考えられるように、盗んだり、虚言をついたりすることではなかった。罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。
布教活動のために日本にひそかに上陸した司祭ロドリゴは幕府に捕縛され長崎へ連行される途中で、番人たちは他人の運命に無関心にも笑いを浮かべていました。
心を鎮めようとロドリゴはラテン語で祈りの言葉を唱えようとしますが、番人たちのそうした挙動が気になり、上述のようなことを思い浮かべるのでした。
罪とは何か?
「罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった」。
例えば、ある女性と交際していながら、裏切って棄ててしまった。そのことを忘れ、自分は別の女性と結婚し、昔のことはもう思い出すことがなかった。これは罪だと言えるでしょう。
ただ人間というのは忘れてゆく生き物です。すべてを記憶することは不可能です。そして自分が他人に対してどのような痕跡を残したのか、あるいは残さなかったのかを検証するすべはありません。
はっきりと「痕跡を残した」と断定できるのは、交際相手を見棄てたような場合に限られるはずです。
こうしたことを忘れてしまうというのは他者への関心を失ったに等しいです。
『沈黙』の発表から時を経て、遠藤周作さんは『イエスの生涯』と『キリストの誕生』という前編・後編というにふさわしい二つの作品を発表しました。作者のキリスト教観・人間観とも推定される『キリストの誕生』の末尾に、次のような言葉が記されています。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。
人間はつねに心のどこかで「同伴者」を探し求めていること、イエスは生前も死後も、その人間の切ない願いに2000年の長きにわたり応えつづけて来たこと、その事実をもって、「自分が痕跡を残したと自覚できること」を忘れてしまうのは、この引用から察するに誰かの同伴者たることはかなわず、したがって人間の条件を満たしていないということになります。
『沈黙』を執筆していたころの遠藤周作さんの他の作品にはまだ「同伴者」という言葉はほとんど見られず、『イエスの生涯』と『キリストの誕生』さらには『死海のほとり』に差し掛かってくるとこの単語が鍵概念のように用いられるようになります。ということは『沈黙』を発表してからも思想が深まっていたことの表れでしょう。
神は沈黙しているのではなく、じつは人間と共に苦しんでいるのだという『沈黙』の最後の場面からもさらに心の深いところへ分け入ろうとすること、これぞ文学というにふさわしいでしょう。
引き続き『沈黙』を読み進めて行きます。
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