遠藤周作さんの未発表小説が2020年になって突如発見されたというニュースに驚いた方も多いでしょう。

あまりにも私小説的であり、関係者が存命だからなのか、清書までされながらも発表されることはありませんでした。この『影に対して』はただちに出版され、大きな反響を呼びました。

平凡であることを良しとする父、ヴァイオリニストであり、理想の音を求めてやまない母。
遠藤周作さんの実際の人生とあまりにも似通っています。

この中で、生活と人生の違いについて述べられているのは、サラリーマンなら誰でも身につまされる話ではないでしょうか。

母親は孤独のうちにひっそりと死を迎えますが、息子に手紙を送ります。その中身は、「アスファルトの道と砂浜の道」というものでした。

アスファルトの道はしっかりと舗装されていて歩くのは楽ですが、足跡が残りません。
対して砂浜は、足をとられがちで大変歩きにくいもの。しかし後ろを振り返ると、点々と自分の足跡がしっかりと残っている・・・。

これほどまでにサラリーマンの生活と芸術家の人生をはっきりと示した文章はなかなかないでしょう。

生活と人生の違い

遠藤周作さんは生活と人生を明確に区別していました。
生活は生きるための活動であり、人生は高みを目指す精神活動であると考えていたようです。
別の表現をするなら、生活とは社会に適応していくための「仮面」であり、人生は「仮面」の下に隠れた人間の喜怒哀楽、ひいては醜いものや弱いものなどを含むもの。文学は後者を言葉によって掘り起こす営みだと言えるでしょう。

この考え方は、私のように日々ブログを書いている人間にしてみれば非常に腑に落ちるものでした。

私自身もふだんはサラリーマンとして働いていますが、家族が難病にかかり余命を知らされたり、知人がガンになったりということがある時期に立て続けに起こりました。そのため自分がいま健康な体で生きていられることの意味に向き合わざるを得なくなり、そのなかで「時間」とは自分の人生の残り時間=命であることをまざまざと見せつけられたのでした。

そして「時間」というものの希少性を悟ると、サラリーマンとして毎日一定の時間を、労働力=作業とともに会社という団体に提供していることに違和感を覚えるようになり、「サラリーマンというのは、結局のところ社長の商品を売って社長の貯金を手伝っているだけだ」という境地に到達してしまったのです。

そうなると、「仕事をしっかり頑張って管理職になろう」「このスキルを身につけてキャリアアップしよう」という、若手サラリーマンにありがちな発想は所詮は偽装された奴隷制のなかで、それが奴隷制であることに気づきもせず踊らされているだけだ・・・、奴隷制という表現が大げさならば、小さな幸せに自らを閉じ込めて喜んでいるに等しい、とすら思えてきました。この感覚はもはや私の信念だと言っても過言ではありません。

このような思いを持つようになったもう一つの理由は、日々ブログを書いて自分の考えを社会に対して公表し、そのことでわずかであっても報酬を得たり(社長の商品ではなく、ちっぽけでも私の商品!)、遠藤周作さんの母と同じくヴァイオリンを演奏したり(舞台に立つというのは、サラリーマン的生き方にまったく反するものです。立つと分かります)、ジョギングをして自らの意志で(会社の命令ではなく、自発的に)体を動かして苦痛を感じながらも体力の向上を実感したり、という経験の積み重ねがあります。

他方で、こうした活動は能動的なものであり、サラリーマンという生き方自体が受動的である以上、私のような考えをそのまま受け入れるサラリーマンは少数派であるということも分かります(だから私には友だちがいない)。理由は簡単で、サラリーマン(というか社会人のほとんど)はそもそもやりたいことがないことが当たり前だからです。

もしこの記事をお読みのサラリーマンの方がいらっしゃいましたら、ぜひブログなり舞台芸能なり、自力で何かを発信するということを日々続けて見てください。そうすると「生活」だけに囚われたサイクルというのがいかに無味乾燥かおわかりいただけるでしょう・・・。