このブログは「友だちいない研究所」といいます。

私には友だちがいないので、そのぼっちで陰キャな日々を書き連ねるのが目的で始めたブログも気がつけば書評とか渡辺麻友さんとかポムポムプリンとか音楽とかヴァイオリンとかジョギングとか、自分の生活のほとんどについて論じることになってしまいました。そうしないとネタが続かないだけなんですけどね。

さて私は最近「サンリオ展 ニッポンのカワイイ文化60年史」を鑑賞してきました。
その感想は
に書きました。

すこし気になっていたのが、シナモロールのTwitterが炎上したときはファンたちが団結してシナモンを守ったというエピソードが明かされていたことです。

いったい、なぜ?

まさかシナモロールがヒトラーやムッソリーニを賛美するような、明らかにおかしいツイートをするはずもないのに、と思い調べてみたところ大変悲しい事実を知りました。

シナモロールのTwitter炎上に、人間のくだらなさを見た

シナモロールのTwitterが炎上するのは、子供の世界のいじめと同じパターンでした。



たとえばこのツイートでは、一見すると特に何の変哲もないシナモンのかわいいらしいイラストとつぶやきなのだが、これに対して一部ユーザーからは心ないリプライが寄せられた。


    「でっけえ消しゴムが転がってんじゃねーよ 」
    「大人の階段から転げ落ちて死ね」
    「首折って死ね」

    Twitterより



ご紹介したのはほんの一部で、もはやシナモンがツイートすると、どんなツイートに対してもこのようなリプライを返すという1つの流れができてしまっている。

(https://news.nicovideo.jp/watch/nw1591292より)

このように、自分は匿名性の陰に隠れてリスクを負うことなく他者を攻撃できることに酔いしれることこそ、人間のくだらなさの極地であると考えます。

私は次のように考えています。


最近では皇族である眞子さまのご結婚について、様々な否定的見解いやバッシングの声が数多くあがり、宮内庁は眞子さまのPTSDを公表しました。

もともと皇族は個人の意見を表明することすらほとんど許されておらず、天皇と皇族は「国民の象徴」である以上、誰かの批判に表立って反論することは事実上認められていません。時おり「お気持ちを表明」という表現でそれとなく、しかし慎重に言葉を選びながらメッセージを発せられる程度です。

このような立場の方を対象に、インターネットでの匿名の書き込みや事実関係を曖昧にしつつ筆者にとって都合のいい記事を週刊誌に掲載するなど、もはやこんな国民を象徴しなければならないなんて、皇族は生まれながらにして不幸を背負われた方だとすら思えてなりません。

私がこういう思いを持つようになったのは、やはり渡辺麻友さんのことがまだ心の中にしっかりと残っているからです。

ご存知のとおり、渡辺麻友さんが所属していたAKB48というグループには握手会というイベントがあり、握手券をもっていると自分の推しメンと握手しつつ会話することができます。
私も何度か渡辺麻友さんと握手したな・・・。

それはいいとして、時には「こうしたほうがいいよ」などというアドバイスを装った暴言や説教を垂れる人もいました。赤の他人にアドバイスをされて嬉しい人などいるわけもないのですが、そこまで想像できないからそういうことをしてしまうのでしょう。

この握手会での暴言や説教は常に問題視されているものの有効な手立てはなく、泣きながら握手を続けるメンバーもいました。
これもやはり反論不能な立場の人に対して人はどれだけ冷酷になれるかという実例であろうと思い、そうした握手会の思い出からついシナモロールのTwitter炎上から皇族へのバッシングまで考えが広がってしまいました。

カワイイキャラクターなり、アイドルなり、社会に生きる私達が容認する枠組の中でしか、彼ら・彼女らが生きていくことを許そうとしない、それは限度を持ったある種の同情意識といえます。
しかし、それこそがたとえ善意でやっていることであってもそこに差別や偏見の種が潜んでいることに、暴言を吐く人たちはおそらく気づいていないでしょう。

このように、シナモロールのTwitter炎上や握手会の説教、皇族へのバッシングなど「いつものパターン」を見るたびに、私はどんどん人間が嫌いになっていくのでした・・・。
(それにしても何年も気丈にアイドルを貫いた渡辺麻友さんってやっぱり偉いな!)