『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『門』そして『こころ』といった有名作品の陰になりがちな中編小説『野分』。本屋さんでも置いていないことのほうが多いです。

そうは言ってもやはり夏目漱石の作品ですから、目を通す価値は十分にあると思います。
『吾輩は猫である』のように何の話をしているのか訳がわからなくなったり、『虞美人草』のように文章そのものが難解でだんだんどうでもよくなってきて読むのをやめてしまうということもなく、長くも短くもないのも、読むにあたっての心理的ハードルを下げてくれます。

新潮文庫の裏表紙にはこう書かれています。
理想主義が高じて失笑をかうした元中学教師の文筆家・白井道也と二人の青年・高柳と中野。学問、金、恋、人生の葛藤を描く
たしかにこの作品には白井道也のように理想を秘めた人や、その妻のようにもっぱら世俗的なことを気にしている人、といったように登場人物の特徴がわりとはっきりしており、ある意味葛藤を表現しやすい構図になっています。

私もつい最近初めてこの本を読みましたが、「あれっ、他の漱石の作品に通じるかも?」と思うような名言に巡り合うことができました。

夏目漱石『野分』の名言。孤独だからこそできることもある?

これは、作品の中盤のひとこま。高柳は、中野と親しくしていたのに中野が最近あまり自分にかまってくれなくなったという状況を説明すると、先生はこう返します(読みやすくするために適宜改行しています)。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」

高柳君はだまって下を向いた。

「わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」

高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木にうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋いでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。

「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです」。これはそのとおりです。
じつはこのブログは「友だちいない研究所」と言いまして、友だちがいない人の日常を書き連ねるために開設したのが当初の目的でした。

ところが友だちいないネタを続けてポストしているうちに、むしろ友だちいないことに誇りが持てるようになってきました。さらには毎日記事を作成していると自分の考えが少しずつ整理されてきて、自分の心の中をどんどん掘り下げていることを自覚するようになったのです。

そうなってくると、上述のようにマイノリティであることを自覚すると、こうした「マジョリティとの違い」が「他の誰でもない私」であるアイデンティティにすらなっていることになってきて、そのような違いから沸き起こる「どうして私は他の人と意見が交わらないのか」という悩みこそが「自分らしさ」を磨く砥石になっていることにも気付かされます。

夏目漱石は「私の個人主義」でこう述べています。
あなたがたはこれからみんな学校を去って、世の中へお出かけになる。それにはまだ大分時間のかかる方もございましょうし、またはおっつけ実社界に活動なさる方もあるでしょうが、いずれも私の一度経過した煩悶(たとい種類は違っても)を繰返しがちなものじゃなかろうかと推察されるのです。

私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。

もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。
いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。

これは有名な「自分の鶴嘴(つるはし)で自分を掘り下げる」というくだりです。
自分の鶴嘴で自分を掘り下げて、ガチッと鉱脈を突き当てた! という手応えを得たとき、あなたの人生は誰にも打ち壊されない自信を獲得するのだと、学生たちに呼びかけた感動的な言葉です。

私の場合、身長155cmの男でして、偏差値で表現すると19くらい。こんなに背が低い男というのはめったにいません。なおかつサンリオファンであり、さらに株主でもあり、ポムポムプリンが好きすぎて一人でピューロランドに行ってしまうという「お前、本当に男か?」と疑われても仕方なく、さらにはバレエが好きでかなりの頻度で『白鳥の湖』とか『くるみ割り人形』を劇場で鑑賞しているという、男でバレエ好きとかいう完全にマイノリティです。

しかし、自分の好きなことを掘り下げていけば行くほど、自分が一人であることを強く自覚するようになるものです。それは、山の頂が高くなればなるほど狭くなるのにも似て、強いこだわりがあるほど他人と重なり合う部分が少なくなるようです。

でもいいじゃありませんか。夏目漱石だってそういう尖ったところがあったからこそ、大学教授をやめて小説家になり、後世に名を残すことができたわけですから。

中世スペインの詩人サン・ファン・デ・ラ・クルスもこう述べています。
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされずその同類にさえわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう
大学生であれ社会人であれ、自分が真剣に取り組みたいことを見つけると、必然的にそのための時間を確保するようになります。勢い、だれかとつるむということは少なくなります。

他の人と離れて自分と真摯に向き合うことは、険しい山を登るにも似ているものがあるかもしれません。ですが、自分が真に価値があると確信できることを見つけるために辿らなくてはならない、唯一の道だと考えています。

その意味で、『野分』に出てくる「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違になる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」という言葉は、私が普段信じていることをぴたりと言い当てているようで、我が意を得たりという思いになりました。これからも夏目漱石を折に触れて読み返し、たくさんの「!」と巡り合っていきたいと思いました。