2013年から新国立劇場バレエ団プリンシパルを務める米沢唯さん。
『バレエ語事典』という本のインタビューで、「内面を踊りで表現するために、自分が『どう生きるか』ということに向き合わざるを得なくなりました」と述べ、たとえば『白鳥の湖』を演じたときの心境の変化について次のように答えています。

『白鳥の湖』の2幕でオデットと王子が出会うシーンを初めて踊ったとき、私は嬉しかったんです。『やっと愛する人に出会えた、この人なら私を救ってくれるかも』って。でも、2回目に踊ったら、今度は悲しくてたまらなかった。『こんなに愛する人に出会えたのに、どうして私は人間ではなくて白鳥なんだろう』って。きっと私のなかで何かが変わったんですね。踊りの解釈が変わったんだと思います。
なんだかタイムリープものの映画で、1巡目の時間軸と2巡目の時間軸で主人公の心境が変化して・・・、というのはありがちな例ですが、自分の身体でオデットの心を表現しようとすればするほど、一つ一つの仕草に意味を探求するようになり、結果的にポジティブな(ある意味、若い)心境からもどかしさ(自分の限界を嫌でも感じてしまう、ある程度成熟した)心境に移り変わっていったのだろうと想像されます。

こうした、初回と2回目で受け止め方が違うというのは、まるで小説を読む時のようではありませんか。

小説家・遠藤周作さんはかつてある書籍(残念ながらどの本だったか特定できず・・・)で、小説を読む時のコツについて述べていました。小説は3度読むことが大事で、初回は筋書きを読む。2度目は筋書き以外の部分をチェック。3度目は、筋書きとそれ以外の部分がどう溶け合っているかを読む。概ねそのような内容でした。

こうしていろいろな部分に焦点を当てることで、1度だけでは通り過ぎてしまうような箇所に気づくことができ、結果として作品世界の奥行きを体得することが可能になるのだとか。

この小説の読み方を踏まえて推察するに、米沢唯さんもリハーサルと本番を重ねることでオデットの振り付け一つ一つの意味を微視的にではなく、物語全体を俯瞰したときにどういう意味があるのかを体で理解していったものと思われます。

私は普段ヴァイオリニストのリサイタルやオーケストラなど、バレエよりもコンサートのために劇場に通うことのほうが多いのですが、バレエの場合は器楽奏者と異なり、自分の体を使ってすべてを表現しなければなりません。そうなると自分の体で覚え、感じるという「言語化できない何か」は普段私達が想像しているよりも遥かに重要であり、しかしその「何か」を咀嚼するのもその人自身の精神であり、そうなると肉体と精神が高度な次元でバランスしていてこそ一流のバレエダンサーと言えるのかもしれません。
もしかすると、米沢唯さんの「内面を踊りで表現するために、自分が『どう生きるか』ということに向き合わざるを得なくなりました」という言葉はそうしたことを意味しているのかも・・・、うーむバレエは奥が深い・・・。