数年前、とあるアイドルグループの衣装がゲシュタポの制服に似ていると非難されたことがありました。
ナチスが滅んで数十年経過した21世紀の今なお、ドイツ軍の軍服なりゲシュタポなどナチスが産み落とした組織の制服には魅力があり、だからこそナチズムは今なお警戒すべき思想であることは間違いありません。
でもどうしてナチスの制服がそんなに人を惹きつけるのか・・・。たしかに団体がみんな同じ制服を来て颯爽と行進している様子は整然とした統一感や団結力が感じられます。ここに魅力を感じるのは、人が集団を形成することで他の動物との生存競争に打ち勝ってきたわけですからある意味当然とも言えるでしょう。
ただ、調べてみると私のようにいつも一人ぼっちでいることを当然とし、そんな状態にむしろ幸福感を感じるタイプの人にしてみれば気持ち悪くて仕方ない一面がありました。
全体主義と制服が結びつくナチス
学研のムック『ヒトラーと第三帝国の真実』という本によると、ナチスとは国民一人ひとりの意志がそのまま国家の意志と直結しており、つまり国民と国家が完全に一体化している社会を目指していました。
つまり「私的」というものはそもそも想定されておらず、したがってナチス党員のみならず公務員はもちろんあらゆる組織に制服を着用させました。そうすることで国民同士の連帯感や国家への帰属意識、みんな同じ服装であるという平等感、安心感、ひいてはドイツ人だ(我々はユダヤ人じゃないぞ)という意識が芽生えて来ます。
しかも軍服がそのわかりやすい例ですが、その服を見ればどこに所属していて、どんな役職で、どういう権限が与えられているか一目でわかります。これはとても便利な記号なのです。
ところが制服には致命的欠陥がありました。
たとえば海軍とかナチス婦人連盟とかの制服があったとして、そこに「その人」のパーソナリティは投影されていません。つまりナチスという体制にあっては、制服を着ている「Aさん」「Bさん」という個人そのものは重要視されず、あくまでも制服が指し示すものがすべてであったのです。
日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」とあります。私たち人間は、それぞれが個性をもった「個人」として、自分自身の生き方や考え方をもっています。それは多様であり、「個人」は誰ひとりとして同じ人はいない、かけがえのない存在です。「個人として尊重される」ということは、お互いの違いを認め合うことで相互に人権を尊重するということにもつながります。ナチスがあらゆる国民に制服を着せたのは、こうした考え方に完全に対立するものです。
ということはナチス体制にあっては国民一人ひとりがそれぞれに幸福を追求することは実質的に認められておらず、ただただ独裁者の意思の道具として働くことを嬉しく思うくらいしか選択肢が残されていないことになります。
このブログは「友だちいない研究所」と言いまして、管理人である私には友だちがいません。
「人と同じことなんかやってられるか!」「絆なんて言葉、くたばれ!」という性格で、あまりに人から指図されることが嫌いなので2020年には政府が配った特別定額給付金を受け取らないことにしました。(詳細は「特別定額給付金を申請しない。「だが断る」を試してみたらどうなったの?」をご覧ください。)
そんな私が、他人の意思を強要されるなんてもってのほか! どんなにかっこいい制服でも、隣の奴と同じ服を着るなんて論外すぎます!!
これからも私は友だちいない人生を歩み続けるでしょうけれども、裏を返せば集団行動を嫌悪するということ。そうなるともう個人の意思が認められないナチスに対して感じる吐き気も一生続くでしょう。
歴史を学べば学ぶほど、自分の普段ならマイナスな性格が逆に全体主義という状況ではプラスに作用することもあるとわかります。うーむナチス、奥が深い。
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