17世紀の本なのに鋭い言葉で人間という生きものの真理を的確に言い当てたラ・ロシュフコーの『箴言集』。

面白いので箴言集をわかりやすく言い換えてみたという記事をもう一度作成します。

自己愛はわれわれの目に似ている。われわれの目は何でも見えるが、目そのものを見ることはできない(以下略)。
ラ・ロシュフコーを理解するうえで自己愛はとても大切な概念のようです。「自己愛の欲望ほど抗いがたいものはなく、自己愛の意図ほど秘められたものはなく、自己愛の行動ほど巧妙なものはない」。
そう語る彼の言葉は21世紀も色あせていません。だって、Instagramのキラキラ感なんて、「きれいでオシャレな私を見て!」って言いたいだけじゃありませんか。それって自己愛そのものなんですけどね。

知人のInstagramをこっそり見てジェラシーにかられて、それでも自分もInstagramに似たような写真を投稿したり。他人の自己愛はすぐに気づくのに、自分が同じことをしていることを完全に見落としていますよね。あほくさ。

人は決して今思っているほど不幸でもなく、かつて願っていたほど幸福でもない。
日常のこまごましたことに振り回されていると、客観的に見て大したことではないのにあたかも重大事のように錯覚して不幸だと思ってしまったこと、ありませんか? 夫がどうした、子供がどうした・・・、そういうことでイライラできるのって、そういう小さい世界の中で人生が完結していることに無自覚なだけで、とても幸せなことなんですよ。(ただしこの手の人はイラクやアフガニスタンで何が起こっても見向きもしないが。)

友達の友情が冷めたことに気づかないのは、友情に乏しい証拠である。
バカは自分がバカだと気づく能力も低いので。

この世で最も仕合わせな人は、僅かな物で満足できる人だかあら、その意味では、幸福にするために無限の富の集積が必要な王侯や野心家は、最もみじめな人たちである。
あれもこれもと物を買い足しても、不毛ですよね。
たとえばあなたに服が1枚しかないとすると、毎日その服を着ることになります。
ところが10枚なら10日に1回しか着ることがなくなり、100枚なら100日に1回しか着ることがなくなり・・・、と買い足せば買い足すほど、その服を着る頻度というのは少なくなり、投資効率が減少していくことを意味します。私はそのことに気づいて服をほとんど買わなくなりました。それで満足です。よかったよかった。

隣人の没落は味方をも敵をも嬉しがらせる。
他人の不幸は蜜の味。これをドイツ語でシャーデンフロイデと言います。直訳すると「影のよろこび」。知人のInstagramにおしゃれな写真が上がっているとイライラすることの裏返し。つまり自己愛がここでも顔を出します。心理学的には、隣人の没落は自分の平和が維持されていることとほぼイコールだからそういう気分になってしまうそうです。


人は他人の欠点をすぐ非難するが、それを見て自分の欠点を直すことはめったにない。
これは説明は不要でしょうね。

人はたいていのことを、それを誉めるのが、または貶すのが、流行だから、誉めたり貶したりするのである。
東京オリンピック反対! 国民の命を守れ! とかいうマスコミの論調はいざ大会が始まるとコロッと変わりました。
上には上があって、いや下には下があると言うべきか・・・。ヤフーコメントなんていつもこの調子。
ここに投稿しているのは一般の人。結果、私はヤフーニュースを見なくなり、しまいにはヤフーを使わなくなりました。
低レベルの報道が繰り返されるのは、視聴者が低レベルだからとしか言いようがありません。

賢者は征服するよりも深入りしないことを得策とする。
適切な距離感を保ちながらの人付き合いというのはなかなか難しいものです。
中居正広さんが30代に友だちを作らず、その一方でMCとしての経験を着実に積み重ねていったのはこのことを経験的に分かっていたからでしょうか?


こうやって思いつくままにピックアップしてみたラ・ロシュフコーの言葉は令和の日本にも十分通用するようです。だからこその古典なんですね。