ラ・ロシュフコー(1613-80)の箴言は愛とか友情とか、一見して美しいとされているものの裏には自分をかっこよく見せようという打算とか自己愛が潜んでいることを暴いた、数百年前の言葉とは思えない切れ味があります。

昔から箴言集の存在は知っていたものの、最近ようやく手に取ることが叶いました。
ページをめくりながら、「あ、そうそう」と思う言葉には線を引いていったところ、いろんな箇所がアンダーラインだらけになってしまいました・・・。

この記事では自分なりに「いいな」と思った言葉たちをわかりやすく言い換えてみることにしました。

では早速、行ってみましょう!


ラ・ロシュフコーの箴言をわかりやすく言い換えてみた
われわれはあくまで理性に従うほどの力は持っていない。
明日6時に起きれば、いい一日のスタートを切れそうだ。
夏休みの宿題は計画的に進めよう。
筋トレをやろう。
お酒をやめよう。
タバコをやめよう。
パチンコを(以下略)。

こういう「当たり前」のことをやれば生活の質が高まるというのは誰でも知っていますよね。
では実践できたか・・・?

いえ、できないからこそラ・ロシュフコーのこの言葉が耳に痛い!

人は自分の好きなものを得る事によって幸福になるので、他人が好ましく思うものを得るからではないのだ。
人の幸、不幸は他人が決めることではありません。
タワーマンションを買うことはなんとなく格好いいことだ、ポルシェに乗ることも素敵だと思われがちです。
でもそういうものにあまり興味がないのに、みんながそう言っているからだという理由でポルシェを買ったらどうでしょう? 無用の長物でしかありませんよね。
賢い人は、自分が価値を認めたものにしかお金を払ってはいけません。(それに、高級ブランドの値段の半分はどうせ広告費でしょうし・・・。)

人びとが友情と名付けたものは、単なる付き合い、利益の折り合い、親切のやりとりに過ぎない。所詮それは、自己愛が常に何か得をしようと目論んでいる取引きでしかないのである。
このブログは「友だちいない研究所」と言いまして、運営している所長の私は友だちがほんとにいません。おかげで大変静かな生活を過ごせています。
私が人間関係をなるべくゼロにしようとしているのは、まさにラ・ロシュフコーのこの言葉を経験的に真実だと納得しているからです。名門貴族の出身である彼にとって、社交というものは「ほんとそれな」だったはずです。大なり小なり、ママ友とか社会人になってからできた知り合いというのはこれに当てはまるでしょう。

ちなみにですが、光GENJIの諸星和己さんはアイドル時代は周りから羨望の的でしたが、グループ解散を発表すると人がどんどん離れてゆき、このことがきっかけで彼は人間不信になってしまったとか。つまり人は自分にとってのメリットがある場合しか人付き合いをしないということですね。

およそ忠告ほど人が気前よく与えるものはない。
人に向かってこうすれば変われるよというのは、相手よりも上の立場に立てているわけですから自己愛を満たすことにつながります。だから忠告を乱発してしまうんですね。でも気前よく与える=何度も自己愛を満たすという式が成り立つと、忠告というのはもはやドラッグです。

すぐれた面を持ちながら疎んじられる人がおり、欠点だらけでも好かれる人がいる。
周りにいますよね、そういう人。なぜ嫌われたり好かれたりするのか? 見ていればわかると思うので説明は省略します・・・。

うんざりすることが許されない人を相手にしていると、ほとんどきまってうんざりする。
学校関係者とか、完全にこれです。これも説明はいらないでしょう。

頭のいい馬鹿ほどはた迷惑な馬鹿はいない。
オウム真理教の幹部が一流大卒だったのがこれ。理路整然と迷惑なことをしでかします。
NHKの『フランケンシュタインの誘惑』を見ていると、どうやら研究者とか専門職と呼ばれる人がこうなりがちなようです。原爆開発の必要性がなくなった(ナチス・ドイツは原爆開発プロジェクトを実施していなかったと判明)と知っていながら、これを作れば世界が平和になるだろうと信じてプロジェクトを続けたオッペンハイマーとか・・・。

われわれの気分が穏やかであるか荒れるかは、生涯の重大事によってよりも、むしろ毎日起きるこまごましたことの運びが、思わしく行くか行かないかによって左右される。
子供が学校から上履きを持って帰らない、持って帰って来ても洗わない、TVばかり見ていてご飯を食べるのが遅い、宿題をしない、夜なのに寝ない、寝たと思ったらゲームをするために夜中に起きる、早く起きろ、小遣い目当てで祖母の家に行く、すべて私が同じ人から聞いた実話です。
その話を聞いていると、ラ・ロシュフコーの言葉は真理だと思います。

まだまだあるので彼の言葉を記事化します。