バロック音楽名曲集のようなCDを買ってくると、入っている確率が高いのが「アルビノーニのアダージョ」です。

『アダージョ ト短調』は、レモ・ジャゾットが作曲した弦楽合奏とオルガンのための楽曲。弦楽合奏のみでも演奏される。1958年に初めて出版された。

この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった。

(ウィキペディアより)
そういえば少し前に、他人の作品を自分の作品だと称することは日本でもありました。

良し悪しは別として、実は似たようなことはたびたび繰り返されています。
たとえばヴァイオリニストであったフリッツ・クライスラーは「古い作品を蘇らせた」という体裁で「何々風のロンド」のような小品を演奏していました。昔の作品を自分が発見したと言いつつ、じつは自分が作曲していたのです。

ヴァイオリン学習者ならいつかは練習することになるヴィターリの「シャコンヌ」は、バロック音楽の名作だとされていますが、実は19世紀のヴァイオリニスト、ダーヴィドが作曲したというのが真相です。

カッチーニの「アヴェ・マリア」も、CDの解説書に何も書いていなければてっきり16世紀の音楽だと思ってしまうでしょうけれど、じつは1970年頃にソ連の音楽家ウラディーミル・ヴァヴィロフが作曲したもの。

おそらくこれからも「あの人の作品だと思っていたのに、じつはそうじゃなかった」という発見があることでしょう。

それはさておき、「アルビノーニのアダージョ」に話を戻します。
作曲の経緯から考えて20世紀の作品であることは間違いありませんから、バロック音楽集のようなCDに採用することが適切かどうかは微妙ですが・・・、まあ営利上の都合もありますしね・・・。
ともあれおすすめのCDはどれだろうと考えてみた時、2種類の対極的な演奏が頭に思い浮かびました。

「アルビノーニのアダージョ」おすすめのCDは

この曲をバロックらしい悲哀に満ちてはいるものの、気品とか端正とかいう美しさがある、という視点から演奏をしているタイプと、苦しみとか懊悩とか、絶望とか、人間の心の中にある黒い感情に注目して演奏をしていると思われるタイプと、2つに大別されます。(なあんにも考えていません、ただ名曲だからというので演奏してみました、録音しました、というのは論外なので触れません。)

前者はやはりパイヤールが手兵パイヤール室内管弦楽団を指揮したものが筆頭に挙げられるでしょう。
柔らかい朝の光を浴びながら、パリの高級ホテルのソファに身を沈めつつ、香り高いコーヒーをゆっくりと味わう・・・、そんな光景すら想像してしまうのがパイヤールのバロック音楽です。

もしかするとバロック音楽というと古臭いとか、いかめしいとか、そんなイメージで敬遠している人がいるとしたらもったいない。私もその1人でした。理由は簡単で、バッハしかりヘンデルしかり、ドイツ系の音楽だからドイツの楽団がいいだろうという無駄な先入観にとらわれていました。
たしかに重厚、謹厳実直な演奏は立派ではありますが・・・、お前はPTAかと思うような堅苦しさもあり、コンサートホールで実演を聴いたらその格調の高さに感銘を受けたことは間違いないでしょうが、日常CDで楽しむにはちょっと不向きでした。

パイヤールは違いました。もしあなたがヴェルサイユ宮殿を訪れることがあったら、ぜひパイヤールが指揮したバロック音楽を脳内で再生してみてください。絶対に目に映る光景にマッチしますから。

そんなパイヤールが「アルビノーニのアダージョ」を演奏するとどうなるのか?
予想に違わず、深刻になりすぎず、哀感が漂うと言っても絶望感というよりも「冬のベネチア」を思わせる、あるいはステンドグラスから射し込む夕日を連想してしまうような・・・、そういう「美しさ」が感じられる慎ましくも気品ある音楽です。


しかし。
世の中には絶望とか苦悩とか、涙も出ない悲哀とか・・・、言葉にすることがためらわれるような感情もあります。
東ドイツの指揮者、ヘルベルト・ケーゲルも「アルビノーニのアダージョ」を録音しています。
あまり馴染みのない指揮者ですが、ウィキペディアによると・・・。
ケーゲルは、ドイツ再統一の直後、1990年に拳銃自殺した。もともと彼は以前から何度か希死念慮を抱いていたといわれているが、統一後に自らの仕事の場所がなくなっていったことへの苛立ち、それによる周囲との不和で鬱状態に陥ったことが原因と考えられている。その際、ライバルと見られていたクルト・マズアから嫌がらせをされていたという指摘もある。また、息子の病気を心配していたこと、社会主義思想を持っていたとされる彼が、事実上東ドイツが西ドイツに吸収される形での統一したドイツの将来を絶望したためではないか、と言われることもある。

旧東独時代の放送用録音を含め、古典派から現代音楽に至る膨大な録音を残し、現代音楽に理解の少ない共産圏においてそれらの普及にも力を尽くしたが、彼の活動は必ずしも正当な評価を受けるに至っていない。

このケーゲルの演奏はただものではありません。
冒頭の30秒、足を引きずるように刻むリズムは処刑場へ向かうイエス・キリストを連想させるような重苦しさがあります。パイヤールと聴き比べていただくと、なんと深刻な! 人の心をえぐるようなオルガンの音色は・・・、パイヤールをパリの高級ホテルにたとえるなら、ケーゲルの演奏はもはやアウシュヴィッツを連想させます。それくらいの違いがあります。



こういう演奏をやってのけてしまうケーゲルですから、拳銃自殺を図ったとしてもたしかに不思議ではありません。しかしそういう心の中に押し込められていた黒い感情を音楽に写し取り、録音として世界中で流通しているのは残酷でもあり、芸術の神が彼を犠牲にしてこの世に「美」をあらしめたのだとも言えるでしょう。

ケーゲルのCDはあまり店頭では見かけませんが、楽天やアマゾンで丹念に調べれば見つかるはずです。私が彼のCDを見つけたときは聴いたこともないようなレーベルから1枚ものが分売されていましたが2021年現在、カプリッチョの8枚組というのが出回っており、バラ売りされていないようです。深刻な演奏なので日々の楽しみとして聴くには重いですが、こういう世界もあるということで1枚くらい持っていても損はないでしょう。