心を閉ざす方法。

一見中二病的で世の中に対して背を向けている言葉に聞こえますが、ネガティブな感情に振り回されてイライラしないためにも、物事に集中するためにも、心を閉ざす方法を知っておくというのはとても大事なことです。

イライラするというのはじつは誰にでも起こりうる感情です。
すこし前のベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』という本の著者はノートルダム清心学園理事長(当時)の渡辺和子さん。彼女はシスターでもありましたが、深くキリスト教に帰依しているはずの彼女でさえ仕事が忙しくなると学生に邪険に対応してしまったこともあるとこの本のなかで述懐していました。

彼女ほど敬虔な考えの持ち主であってもこうなのですから、普通の人びとである私たちならなおさらですよね。
だからこその、ネガティブな感情に心を閉ざす方法なのです。
ハリー・ポッターでは「閉心術」という魔法がありました。スネイプはこれに長けていたためヴォルデモートに感情を読み取られることがなくスパイ活動を続けることが可能になっていました。スネイプによると、閉心術の基本は開心術で自身をの思考や感情を支配されないように、心を空にすることであり、さらには自身の感情をコントロールすることも重要だそうです。

「閉心術」は自分の嫌な記憶や隠しごとを調べられないための手段でもあり、そういうことは現実には起こりえませんが自身の感情をコントロールすることの大切さは魔法界だけではなく私たち人間にとっても同じですよね。

では、現実世界を生きる私たちが実践可能な心を閉ざす方法とはどんなものなのでしょうか?

古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスに学ぶ「心を閉ざす方法」

世界史の授業でも五賢帝の1人としてかならず登場するマルクス・アウレリウス(121-180)。
ローマ皇帝にして哲人であり、ゲルマン民族との戦いに奔走し、わずかに得た孤独な時間を利用して自分の行動を反省し、ストア派哲学をもとにした自分なりの「生きる姿勢」を記録していました。これが『自省録』です。

『自省録』は長い年月が過ぎて16世紀に初めて印刷され、世の中に流通することになります。政治的な内容が盛り込まれていないためかえって敵対勢力などから焚書などの被害に遭うこともなく、古代から中世に伝えられることができたようです。

この本の中には、「心を閉ざす方法」ともいえる言葉が散りばめられており、日常の精神を平穏に保ちたい人にとって大きなヒントになることは間違いないでしょう。いや、『自省録』にはもうそういうヒントしかない、と言っても過言ではありません。

それでは、私がページをめくるままにランダムに引用します。
独立心を持つことと絶対に僥倖をたのまぬこと。たとえ一瞬間でも、理性以外の何物にもたよらぬこと。ひどい苦しみの中にも、子を失ったときにも、長い患いの間にも、常に同じであること。
克己の精神と確固たる目的を持つこと。いろいろな場合、たとえば病気の場合でさえも、きげん良くしていること。優しいところと厳格なところとがうまくまざり合った性質。目前の義務を苦労に感じてやらぬこと。
つねに信条通り正しく行動するのに成功しなくとも胸を悪くしたり落胆したり厭になったりするな。失敗したらまたそれに戻って行け。そして大体において自分の行動が人間としてふさわしいものならそれで満足し、君が再びもどって行ってやろうとする事柄を愛せよ。
至る時にかたく決心せよ。ローマ人として男性として、自分が現在手に引受けていることを、几帳面な飾り気のない威厳をもって、愛情をもって、独立と正義をもって果そうと。
また他のあらゆる思念から離れて自分に休息を与えようと。その休息を与えるには、一つ一つの行動を一生の最後のもののごとくおこない、あらゆるでたらめや、理性の命ずることにたいする不満を捨て去ればよい。
何かするときいやいやながらするな、利己的な気持からするな、無遠慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ。
誰がなにをしようと、なにをいおうと、私は善くあらねばならない。それはあたかも金かエメラルドか紫貝が口癖のようにこういっていたとするのと同じことだ。「誰がなにをしようといおうと、私はエメラルドでなくてはならない。私の色を保っていなくてはならない」と。
隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているか覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮る者は、なんと多くの余暇を獲ることであろう。目標に向ってまっしぐらに走り、わき見するな。
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。しかし他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである。
人生を建設するには一つ一つの行動からやって行かなくてはならない。そして個々の行動ができるかぎりその目的を果たすならばそれで満足すべきだ。
長くなるのでこのへんで引用はおしまいにします。
似たようなアイデアが、表現を変えて何度も登場するということは、ローマ皇帝(しかも五賢帝!)という歴史上抜きん出た人物であっても、心の平安を保つ=ネガティブな感情に心を閉ざすということがきわめて難しかったからこそ、「理想の自分かくあるべし」という像を何度も何度も「自分への戒めとなる言葉を書く」という行為を通じて自分の心の中に浸透させなければならなかったことを示唆しています。

であればいっそのこと、ネガティブな感情にコントロールされないということを、一生の課題として取り上げてみてはいかがでしょうか。私やあなたが見つけたやり方はマルクス・アウレリウスの方法とは違っているでしょうし、またそうなって当然でしょう。そしてその「違い」こそ私たちのパーソナリティとして尊重すべきものではないでしょうか。

それにしても古典って本当にたくさんの学びに溢れていますね!