プルーストの代表作である『失われた時を求めて』は、「世界で最も長い小説」だということになっています。2021年現在も刊行が続いている光文社古典新訳文庫では全部で14冊になる予定です。

本当は栗本薫の『グイン・サーガ』が100巻を超え、作者が亡くなっても別の小説家によって書き継がれているのでそっちのほうが長い気がしますが。
単独の作者によって完結させた作品に限っても山岡荘八の『徳川家康』だって26巻あるのでプルーストよりも長いですね。

まあそんなことはさておき、盛り込まれた表現の芸術的深さや到達点、後世への影響ということを考えると『失われた時を求めて』を20世紀最大の文学と評するのは十分うなずけます。

職場の後輩が「プルーストの『失われた時を求めて』が好きなんですよ」と言っていましたが、その彼がある日突然亡くなってしまい、この作品のどこがどんなふうに好きなのかは結局わからないままになってしまいました。
自分にとって大切なものや人は自分が思っているよりも早く、唐突に失われてしまうということを身にしみて実感した私は、「今読まなくていつ読むんだ」という気持ちにかられ、ついに『失われた時を求めて』の第1巻を入手しました。

ところが・・・。

読み進めても読み進めても終わらない『失われた時を求めて』

首都クリスタルへのモンゴール軍の奇襲により、中原の歴史ある国パロは滅亡の危機に瀕していた。国王、王妃までもがモンゴール兵の手により殺害されるという状況の中、家臣はパロ王家に太古より伝わる古代機械(物質転送装置)を用いて、国王の長男にして王太子であるレムスと、その双子の姉リンダを友邦国アルゴスへ移送しようとした。が、古代機械の座標設定に狂いが生じ、2人はあろうことか敵勢力のまっただ中、モンゴール辺境にある魑魅魍魎の跋扈するルードの森へと転送されてしまった。
これは『グイン・サーガ』のあらすじ(ウィキペディアより)です。レムスとリンダはこの後豹頭の男グインと出会い、剣と魔法の絢爛たる物語絵巻が始まります。

普通の小説というのはこういう明確なストーリーがあって起伏があり、起承転結などがあるものです。

『失われた時を求めて』はこうしたはっきりとしたストーリーがなく(一応それらしき物語の流れというのはあるのだが把握しづらい)、延々と語り手の感情や昔の思い出、その他諸々の描写が渾然一体となって(これが連鎖する比喩だということになっているらしい)繰り広げられ、読んでいるうちに自分が一体今何の話を聞いているのかだんだんわけがわからなくなってくるのでした。

悲しいことに、夕食が済むとじきに、天気が良ければ庭で、悪ければみんなが集まる小さな客間で、まだ人びとと話し込んでいるお母さんと別れて私は寝室へ行かなければならなかった。みんな、とは言ったけれど、祖母は例外である。祖母はつねづね「田舎にいるのにうちのなかに閉じこもっているのはみじめですよ」と言っていたし、とくに雨がひどい日には、外にいないで自分の寝室に行って本を読みなさいと私に命じる父と果てしない口論をしたものだった。

(光文社古典新訳文庫『失われた時を求めて』高遠弘美訳より)
こういう話が有名なマドレーヌの話が出てくるまで116ページ続きます。
そのあともこのような調子で物語られ、モンゴール兵も豹頭の仮面も一切登場しません。ただただ比喩や情感がフランス的(?)な情緒のもと長々と繰り広げられるのでした。

音楽で言えばブルックナーの交響曲のアダージョ楽章がずっと鳴り響いているようなものでしょうか。
ブルックナーなら私は好きですが、文学でこれをやられるとさすがにきついです。

しかし買ってきた以上、一応読み進めなければ・・・、と思っているのに、読んでも読んでも終わる気配をまったく見せない長さ! 広大なロシア(ソ連)に侵攻して、どこまでも広がる広大な大地に飲み込まれてしまったナポレオンやヒトラーの焦燥感や、叩いても叩いても中国軍が奥地へ退却して、追いかけるたびに補給線ばかりが長くなってゆく日中戦争の無理ゲー感がなんとなくわかるようになってしまいました。

しかも1巻を買ってきたあとで、光文社古典新訳文庫の翻訳はまだ未完結だと気づいてしまったのです。先に気づけ・・・。

いったいどうすれば・・・。