Cuvie先生のバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』の第12巻。

YAGP(ユース・アメリカ・グランプリ)のNY予選、そしてスカラシップ・クラスオーディションが続くなか、奏や翔子たちはわずか数分の出番にすべてを賭け、全力で立ち向かっていきます。
NYには世界中から逸材が集い、自分が目指すものを獲得しようと火花を散らす中、予選で道を閉ざされ、おめおめと手ぶらで帰るわけにはいきませんから、この瞬間に自分のありとあらゆる力を集中させ、解き放たなければならないプレッシャーは相当なもの。

奏が踊るのはディアナ。これまでに師から吸収してきたものをすべて吐き出し、本選へ歩みをすすめることができるでしょうか?

奏は心の中でこう語ります。
ああ 嫌だな 久しぶりのこの感覚
自分の踊りはあの人に比べて こんなにも劣ってるって感覚
歯がゆい
悔しい
競争じゃないって滝本先生は言うけど YAGPがコンクールである以上
予選(ここ)で私は負けられないから 持ってる武器全部使う
教わったこと何一つ漏らさず
ありったけを使って 戦い抜く
踊り終えた彼女はクタクタになり、反省点が多かったようですが滝本先生からは「会心の出来」と評します。客席からはそう見えたということは、つまりそっちのほうが真実だったのでしょう。

ニコルズは世界各地に目をつけている次世代の人材がいることを知って胸中穏やかではない奏ではありますが、「今この瞬間」にすべてを賭けて臨んだ舞台で師匠から称賛され、気を取り直します。

この場面を読んでいると、英国ロイヤル・バレエ団元プリンシパル、吉田都さんのある言葉を思い出します。

舞台は「今」しかない

吉田都さんは、バレエを「生きている芸術」だと『バレリーナ 踊り続ける理由』という本のなかで述べています。
舞台芸術は「生命の輝き」であり、舞台上の人間も、観客も、一人ひとりがそこで起こる出来事を共有し、消えてなくなる一瞬の輝きを一緒に味わっているのだと・・・。

今でこそDVDやYouTubeでバレエを手軽に鑑賞することができるようになりました。
しかし、吉田都さんは映像にはできないことが一つあると指摘しています。

それは、舞台芸術は「今」であるというまさに一回性であり、同じ演目であってもその日のコンディションや抱えている感情によって微妙な違いが発生し、そのような生の息遣いが出会う場所こそ舞台だというのです。

これは、古代ギリシアのイソップ寓話の「ホラ吹き男の話」にも通じるものがあります。
このホラ吹き男は、「自分はロードス島で開かれた陸上競技大会で、素晴らしい走り幅跳びの記録を打ち立てた。もしロードス島に行くことがあったら、誰でも知っているからぜひ聞いてみろ」と自慢していました。
すると、その話を聞いた別の男が、「ならばここがロードス島だと思って、ここで跳んでみろ」と求めました。そのため、このホラ吹き男はすっかり困り果ててしまったということです。

つまり「論より証拠」であり、「今いるこの場所でベストを尽くせ」「今という現実に全力で向かい合え」という教訓が引き出されます。ここから「ここがロドスだ、ここで跳べ」という格言が生まれ、環境のせいにしないで自助努力を意味で用いられるようになりました。

奏も絵馬も、翔子も、かつてYAGPに挑んださくらも、コンクールという「今、この瞬間しかないこの舞台」に挑んだその姿というのは、まさに吉田都さんの言う『舞台は「今」しかない』であり、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」の精神に相通ずるものがあると言えます。

この「今しかない」というのは何も舞台に立つ人だけが持つべき心ではなく、私たち一人ひとりが――いつかは必ずこの世を去る日が訪れる私たちが――限られた時間=命のなかで自分の生活を向上させ、自分が望む幸福を真摯に求めるのであれば、この覚悟と向き合うことは不可避であると言えるでしょう。

『絢爛たるグランドセーヌ』第12巻は、栄冠を目指して持てる力を振り絞る数多くの努力が描かれ、読んでいて身が引き締まる思いがしました。次巻も引き続き注目して行きたいと思います。