このブログも始まってから3年半ほどが経過しました。

まさかこんなに長く続くとは思ってもいませんでした。

「友だちいない研究所」というタイトルどおり、友だちいない=ぼっちな日常を書き連ねるのが最初の目的でした。

大半の記事はそういう狙いどおり、「忘年会を避ける方法」「同僚と昼食を食べたくない!」「大学のグループワークを一人でやった件」のような内容です。
そんな記事を書けば書くほど自分のアイデンティティがそっちに集中し、ますます陰キャな性格になっていっていることを日々、実感していました。

ところが2020年になると新型コロナウイルス感染症の影響で、政府や東京都は「人と会うな」というメッセージをあの手この手で出し始めました。
素直な性格の人なら「よしステイホームだ」となるはずですが、自分でもヴァイオリンを演奏し、また子どものころから文学とか音楽といった芸術に親しんできた関係上、人の自由な意志や判断などに基づく「表現」というものを重んじている私の癪にさわりました。

そこで私はビシバシ人と会って食事をすることにしました。
という記事でも書いたとおり、政府・東京都の政策に逆らって人と食事をし、ビールをがぶがぶのんだのでした。

さらには、そんなことを滅多にしないのに、職場の人ふたり私の3人で3時間にわたって夕食を食べました。
アルコールなし(提供しない店だったので)で3時間も話すか? と我ながら不思議なものです。

dining


陰キャワイ、人と会って食事をすることの大切さを力説する

口実は、「職場でこれこれしかじかな、きっと不満に思っているに違いないことがありましたが、どう受け止めているのか教えて下さい」というもの。

でも3時間ずっと喋っていたのはそういう仕事の話ではなくて、「こんな明るいうちから外食できてよかった。家にいたら今頃は(家族に)怒っていた時間だ」「職場のあの人が仕事の中身を分かってないくせに妙にいばる」「普段家ではこんなふうに話をしながら食事をしない、家だとお葬式みたいな夕食だ」といった、テーマを深堀りするようなものではまったくなく、ぐるぐるぐるぐると日常の出来事を話すというもの。陰キャな自分が途中でちょくちょく「TVはまったく見てなくて、、、文学が~、音楽が~、伝統を次世代につなげるとは~、『アンネの日記』が~」、といかにもこのブログに書いてありそうな根暗な話題を放り込みます。

普通の飲み会でも3時間続けば長尺なほうだと思います。

アルコールなしで3時間も話が途切れなかったというのは(5時に始まって閉店8時まで居座った)、コース料理を注文して時間をかけて食事を味わったということもありますがそれだけ話が盛り上がったということでしょう。

最後に、「久しぶりにこういう会食をした、やっぱりたまには人とご飯を食べるのは大事だ」という感想を頂きました。思い切って声をかけてみてよかった! と思いました。
私は、「人は心の中にいろんなモヤモヤを抱えているから、こうやってたまにはそういうものを誰かに伝えるのって大事ですよね」と返しました。というわけで大成功のうちに終了。相手は女性2人。ん、陰キャが女から感謝されるって矛盾してないか?

心の中に溜まったものを吐き出すことの大切さ

私は普段こうやってブログを運営しているため、自分が考えたことを文章にして書きとめています。
毎日そんなことを続けていると、「心の中にある”何か”」を吐き出しつづけることの効用を嫌でも実感することになります。それは、「自分の考えが整理されてきて、”自分らしさ”と徹底的に向き合うことができる」ということです。夏目漱石が「自分のツルハシで自分を掘る、そこでガチッと鉱脈を掘り当てて”これだ!”と叫ぶ」という言い方をある講演会でしていた、まさにそれです。

さらには、人は「自分の話を誰かに聞いてほしい」という潜在的な欲求もあります。だから人が人たりえるわけですね。作家・遠藤周作さんの言う「人は同伴者を求めるものだ」という説もまさにこれです。クリスチャンだった彼は『キリストの誕生』でこう述べています。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
人は、自分の心の中にあるものを発信し、誰かに受け止めてほしいという願いを2000年前も、今も、そして2000年後も抱き続けるでしょう。人はその願いがあるからこそ孤独であり、そして孤独ではないのです。

「久しぶりにこういう会食をした、やっぱりたまには人とご飯を食べるのは大事だ」という感想に対して、人は心の中にいろんなモヤモヤを抱えているから、こうやってたまにはそういうものを誰かに伝えるのって大事ですよね」という返事をしたのもまさにそのことをこの1年身にしみて味わったからです。

にしてもぼっち陰キャな自分が人と食事をすることの大切さを力説する日が来ようとは。
どこの並行世界に紛れ込んでしまったのか・・・。