アルベール・カミュの代表作「シーシュポスの神話」において、シーシュポスは神々から山頂まで岩を運び上げるという神罰を課せられてしまいます。
彼が渾身の力をふりしぼりやっと山頂へ岩を持ち上げても・・・。


なんと、岩はそれ自体の重みでゴロゴロと地上まで転がり落ちてしまうのでした。

シーシュポスのとった行動とは、「再びその岩を持ち上げるために下山し、何度でも何度でも岩を運び上げる」。

カミュはシーシュポスの行いを、無限に続くかのように思える労働者の毎日にたとえています。

何百回、何千回と岩を山頂へ運ぶという神罰はみかけ上は不条理なものにすぎません。
しかしシーシュポスは、自分の行動、態度こそが自分の日々を決定するものだと信じ、たとえ不条理であっても「すべてよし」と受け止めています。

カミュはこう「シーシュポスの神話」を結んでいます。
「頂上をめがける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりうるのだ。いま、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ」。

すなわち、どのような苦痛・苦役であっても人はその運命を受け入れ、「すべてよし」とすら感じることが可能であるという「人間の尊厳」にすらつながっている幸福感の原点を示したものとすらいえるでしょう。

ヴァイオリンの練習はシーシュポスの神話そのものだ!

ヴァイオリンの練習はどうでしょうか?

毎日音階、エチュード、そのあとソナタ、そして自分がいかにレベルが低いかを悟り、絶望します。
月曜も火曜も水曜も木曜も・・・、以下略。

この「自分がいかにレベルが低いかを悟り、絶望」というのはヴァイオリンをやっている人なら100%味わった感覚のはず。

大抵の人は、これに耐えられなくて絶望してやめてしまいます。なんてこったい!!

ではどんな人が続けるのか? というと、そこはもうシーシュポスのような心理に近づきつつある人だとしか言いようがない気がします。

たとえ下手くそでもそれを受け入れて、才能がなくても受け入れて、舞台で大爆死しても「次こそは」と奮起し、次の舞台でまた大爆死しても「いや次こそは」ともう一度奮起し、後から来た人に追い抜かれてしまっても「なにくそ」と自らにハッパをかけ・・・。

ま、早い話がマゾなのかもしれません。
それか、一度ハマってしまうと「なんとかしてクリアしてやろう」と逆に燃え立つタイプの人かも・・・。

こういう人のうち一握りがほんとに大成功してヴァイオリンの素晴らしさを世界に広め、また次世代に音楽をつないでいくわけですね・・・。

才能がない私たちは「その他大勢」であることは100%確定していますが、「すべてよし」と受け止めて淡々とやり続けるしかないでしょう。

幕末~明治初期、戊辰戦争に旧幕府側の軍人として参加し、五稜郭の戦いで捕縛された幕府側の武士、荒井郁之助は晩年に次のような歌を残しています。
手にとれば
高き梢(こずえ)の花の香も
下枝(しづえ)のものと
かわらざりけり
高い枝に咲き誇る花も、下の方でひっそりと咲いている花も、同じようにかぐわしく美しい・・・。
動乱の時代を生き延びた彼が自分の人生を振り返ったとき、溢れ出た観照を綴ったものと思われます。

たとえヴァイオリンで1円も稼げないにせよ、オーケストラと一生共演できないにせよ、それでも「下の方でひっそりと咲いている花も、同じようにかぐわしく美しい」、そういう感覚にたどり着けたら、それはそれで万々歳ではありませんか。