Cuvie先生のバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』の第5巻。
この巻冒頭では、『眠れる森の美女』が17世紀後半の絶対王政の時代をイメージして設定していることに触れ、バロックについて書かれた本をひもときながら時代背景を確かめることの重要性が解き明かされていました。

そして、バレエに限らず西洋の芸術を学ぼうとする、非西洋世界に暮らす私達にとって興味深いメッセージが伝えられています。

西洋の人達はバレエの歴史と地続きの文化の中で育ってきてる
この世界で彼らとともに働きたいなら私達はまず学ばなきゃ
理解できないものは作れない
古典は特に西洋の価値観をベースにした物語
アジア人ダンサーがぶつかる壁もそこにあると思う
いくらテクニックに秀でていてもね
これに先立つ巻では、芸術が模倣から始まることが指摘されていましたが、第5巻では一歩深い世界へ踏み込んでいることが端的に示されているようです。

ここで奏は気づきます。
西洋のプロ志望の子達はそういう文化の中で育った上にさらにバレエに大事なこと学校で学ぶの・・・?
そう、これはバロックなり、ロココなり、そこから連なるバレエといった文化や歴史の重みがない日本人が、西洋出身の若者と、西洋という土俵でどうやって伍してゆくか、そもそもそういうことが可能なのか、志ある若者がいつかは気づいてしまう「壁」であると言えるでしょう。いわば、ゼロからのスタート否マイナスからのスタート!!

芸術は模倣である、しかし

芸術は模倣から始まるのは、最初は「習い事」である以上避けられません。
師匠から、伝統から受け継いだものに自分なりの「何か」を加えて始めて自らの表現とすることができます。
有名なヴァイオリニスト、シュタフォンハーゲン氏はある弟子の一人に課題曲としてバッハの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』を手渡しつつ、こう告げたことがあります。
「あなたはこの曲を一生の課題としてとりあげてごらんなさい。私がこれまでに作り上げたものと、あなたがこれから作り出すであろうものの間に違いがあったとしても、それは当然のことなのです」。

この言葉のなかには、「教えられることはあなたに伝えるが、そこから先どうなるかはあなた次第だ」というニュアンスも含まれていますね。

他方で、日本人に限らずアジア人は自分なりの「何か」を加えることを不得手としています。
2010年10月に実施されたショパンコンクールの審査員、アダム・ハラシェヴィッチ氏は『読売新聞』にてこう苦言を呈しています。
アジア系の参加者の演奏は音楽を何も感じず、ただ上手に弾いているだけ。頭で考えるのでなく心で感じてほしい。
なお、このときのショパンコンクールでは出場者81人のうち17人が日本人であり、全員が3次予選までに落選しました。どこの国の若者に向けて言っているかは容易に想像されます。

1990年のチャイコフスキーコンクールで日本人初のヴァイオリン部門優勝者である諏訪内晶子さんもヴァイオリンの演奏法の一つであるヴィブラート(音を揺らす技法)の使い方でこう述懐しています。
ヴィブラートのかけ方一つとってみても、音色を築く手段として彼我の完成には大きな差がある。音楽の中にある様々の要素は、東西それぞれの歴史的産物であり、その後ろには何百年という伝統がある。もしかしたら感性の違いが遺伝子に組み込まれてしまっているのではないだろうか。
たしかに、様々なヴァイオリニストの演奏を聴いてみると、ヨーロッパたとえばドイツやチェコなど中欧の流派の演奏、フランス・ベルギーで教育を受けた演奏家の音色、アメリカの一流とされる音楽院で叩き込まれた演奏法、いずれも微妙に異なるニュアンスが出ており、なおかつ「技術的には完璧だけれど」で終わってしまう若手日本人の演奏家とは自己主張のレベルが異なることに気付かされます。

さらに、あの小澤征爾さんすら2002年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートにおいて、ウィンナ・ワルツ独特のリズム(2拍目がすこし長い)をうまく表現できず、非常に苦労したと言われています。

こうして様々なエピソードを並べてみると、「結局日本人には克服できない壁があるんじゃないか」と思えてしまいますが、利点もあるはずです。
フランス人はフランス文化というレンズを通してドイツやロシア、イギリスを理解し、ロシア人はロシア文化というレンズを通してフランスやドイツ、イギリスを理解します。

欧州各国いずれにも近くもなく、遠くもなく、フラットな視点から研究が可能であるのは非欧米文化圏に属していることの優位性であると考えられなくもありません。
ただ上手に演奏するだけで、個性に乏しいというのは主体性が重んじられない日本の教育の欠陥、あるいは主体性それ自体が必要とされない文化的弱点であるのかもしれませんが、このような部分を克服すれば世界で通用する表現者たりうる可能性は十分あるといえるでしょう。

『絢爛たるグランドセーヌ』のヒロイン奏は学ぶことに貪欲で、あらゆる機会を捉えて様々なことを吸収していることが描かれています。彼女が今後どう羽ばたいてゆくのか、次巻以降も目が離せません。