2020年6月1日。私たち、渡辺麻友さんを応援する人にとって忘れられない1日となりました。

健康上の理由で芸能界を引退することが報道され、同日渡辺麻友さんはTwitterで私たちを気づかう最後の言葉を残しその後は潔く一般の方となりました。

その後もSNSやYouTube、回想録などの情報発信が一切なく、そこは人一倍舞台にかける情熱を持っていたストイックな彼女らしさのひとつの表れと見ることができるでしょう。

渡辺麻友さんが大好きだった(今もそうなのでしょうか?)ポムポムプリンはツイッターで毎月末には印象的なことをつぶやいています。5月31日には・・・。


「それでも当たり前のように、季節は迎えに来るんだね」。
私がこの1年に感じていたこともこれに近いものでした。時間の流れはとどめようがなく、どのような素晴らしい瞬間であっても押し流され次の日々を迎えます。こうして毎年、私たちは何かを失いながら別の何かを得つつ、歳を重ねます。
ただ惰性で生きている人にとって、この流れはただの加齢であっても、瞬間瞬間を懸命に生きている人にとっては成熟の道のりに他なりません。かつて岡山県にあるノートルダム清心女子大学の理事長を務められた渡辺和子さんもベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』という本のなかで、「時間の使い方は、そのまま命の使い方なのです」と述べておられます。
11年に及ぶアイドル生活、そして3年間の女優としての時間=命の積み重ねが渡辺麻友さんにとって多くのものを得た日々であることを心から願わずにはいられません。

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文化の継承果てしなく

思うに、渡辺麻友さんも彼女単独で「渡辺麻友」たりえたわけではないはずです。

AKB48というプラットフォームがあり、1期生という先駆者があり、彼女たちを支えるファンの存在があり、また懸命に努力する若者たちを応援しようという日本人の伝統的情緒が現代社会にも共有されていたこと、他にも数えればきりがない要素があったこと、つまり「渡辺麻友」という果実を実らせる豊かな文化的土壌があったことは見落とすことができません。

また、文化的土壌というものはその時代固有の特徴を吸収しつつ、次の時代へと誰かが手渡すことで受け継がれるものです。夏目漱石のあとにその影響を受けて芥川龍之介が続き、さらに太宰治が続き、戦後には様々な文学が花開いたことがその例として挙げられるでしょう。

であれば私たちが支えようとした「渡辺麻友」も次世代の「渡辺麻友」(という要素をもつ女優)へアップデートされてゆくことは疑いがなく、彼女に憧れて芸能界に入った人が複数いることからもそれは明らかであり、また彼女の舞台にかける真摯な姿は広く知られているところから、舞台人の一つの模範としてこれからも言及され続けるはずです。

このようにして文化が――人によって「文化」が意味するのは女優であったり、ピアニストであったり、小説家であったりしますが――次の時代へ運ばれてゆく、私たちもまたその担い手たらんとすることは、たとえ渡辺麻友さんが舞台から去ってしまったとしても可能であるはずで、私たちは何を良しとするのか、何を認めてはならないのか、自分なりの考えに基づいて行動するだけでわずかながらも次世代へ思いを託すことが可能です。

これは本当にちっぽけなことです。でも、それは無ではありません。ゼロよりは遥かに大きく、私たちにそれ以上何ができるというのでしょうか。一人ひとりの人間は社会の動きや時代の流れを変えることは不可能ですが、その事実を見つめつつも、自分がどう受け止め、またどう振る舞うかは私たちに委ねられています。これはもはや渡辺麻友さんのアイドル・女優としての業績をどう評価するかを超えた別次元の話になってしまいますが、この態度こそまさしく大なり小なり「人間の尊厳」に連なるものと考えます。


この1年、私は以上のような感慨を覚えるようになりました。
一個人として世代を超えた文化の継承に深く心を寄せつつ、自分の手が届く範囲でできることを(それが何の影響力を生まないとしても)続けていきたい、そう強く願っています。