Cuvie先生のバレエ漫画『絢爛たるグランドセーヌ』の第4巻。この巻ではヒロイン奏がチャンスを一度は手につかむものの、まさかの捻挫で舞台に出られなくなるというアクシデントに見舞われます。

スポーツをしていても故障はつきもの。バレエにおいても肉体を使う表現であるだけに怪我は切っても切り離せない関係だったようです。こういう不幸な出来事で甲子園やインターハイを諦めねばならなかった学生たちが一定数いることを思うと胸が痛みます。

奏と競い合う関係にある絵麻もかつて疲労骨折でスネを痛め、復帰後は動きが重くなり全然踊れていなかったことが4巻の終盤で明らかにされています。
栗栖さくらはその彼女を厳しく突き放します。
知らないよそんなこと
休んでる間にできることだってある
ケガしたからって時間を無駄にしてたあの子が悪い
たしかにケガはどれだけ注意しても一定の確率で発生してしまいますから、自由に動けない時間に何をしているかというのは、本人次第。

私が愛読しているマルクス・アウレリウスの『自省録』において、彼はこう述べています。
我々が怒ったり悲しんだりする事柄そのものにくらべて、これに関する我々の怒りや悲しみのほうがどれほどよけい苦しみをもたらすことであろう。

君がなにか外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。
はるか昔、古代ローマにおいてこのような言葉が書き残されました。

そのおよそ2000年後、ナチス・ドイツがドイツ本土および占領地域に建設した強制収容所でも、囚人となってもなおも誇り高く生きるユダヤ人の姿を目の当たりにした、やはり自分自身も囚人であったヴィクトール・フランクルは、「どのような環境に直面したとしても、自分がそこにどう向き合うかは自分で決めることができる」として、過酷な環境でも消え去ることのなかった人間の尊厳を『夜と霧』において後世に生きる私達へのメッセージとして伝えています。

すなわち、不幸や悩みが襲いかかってきたとき、それをどう受け止め、消化するかは私達次第だということです。知識や教養など、外から加えられたものとちがって、この自分の心の中に湧き上がる不幸、悩み、不安、こうしたものこそ私達固有の「財産」であって、何ものにも奪われることはありません。この暗い時期をどう耐え忍ぶかによって何かしら自分のこれからにとってプラスになるものをつかみ得たならば、それはまったくその人独自の経験であり、その人らしさを作り出していると言えるでしょう。

はたして、ケガをしたからといってそこで諦めてしまうのか、「この時間を無駄にはすまい」となにかを掴み取ろうとするかで、その後のスポーツなり、バレエなりの人生が変わってしまうことを第4巻では示唆しているかのように思えます。

第4巻の最後にバロック芸術に関する本を手渡された奏はこのあとどうなるのでしょうか?

それにしてもバロックとは目のつけどころがいいと思いました。
私は以前のブログ記事で荒木飛呂彦先生の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』のジョジョ立ちについてバロック彫刻との関連性を指摘したことがあります。

ジョジョ立ちといえば不自然なねじれ。これはベルニーニの彫刻からのインスピレーションがきっかけだったそうです。
私自身、バレエを見ているとどうしてもかつてローマやパリでみた様々な彫刻を思い出すことがあり、第4巻の終わりにバロック芸術が登場したので思わずニヤリとなりました。今後どうなるのでしょうか・・・?


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